2017年8月28日月曜日

私的『ヴェニスの商人』考

ヴェニスの商人という話がある。

ヴェニスの商人
(「SOGO_etext_library」より)

話を展開する前に、この話はキリスト教が
普及していた時代に書かれたもののように思えます。

この話の主人公であるアントニオの親友
バサーニオという”気立てのいいヴェニス人”は
身の丈に合わない派手な生活をし
親から受け取った遺産を食い潰し
更に今度、お金持ちの娘と結婚して
自分が遊んで暮らすお金を手に入れる計画を立てている。
(娘の気持ちは書かれていない。
 本文にあるのは、あくまでバサーニオ視点での話。)

この時点で、こう…なんというか…
ろくでなしですね。
この時代の貴族はこういうのが普通、と
言い切っている物語の語り手もどうかしていると思うし
アントニオもろくでなし貴族と結託しているのが
そもそも私の倫理観に合いません。

キリスト教徒とユダヤ教徒が同じ話に出てくるときは
必ずと言っていいほどユダヤ教徒が悪人側です。
逆にキリスト教徒は善人として扱われます。
それは背景に、神との新しい約束を結んだ
キリスト教が広まっているので
古い約束の民(ユダヤ教徒)は、もう祈っても救われない。
なぜならこの新しい約束が有効だからだ。
新しい約束をしたキリスト教徒が
救われるに値する選ばれた民であり
ユダヤ教徒は神に見捨てられたダメな奴、という
すごく偏見に満ちた思想が時代背景にあると考えるのが
適当だろうと私は思う。

まずアントニオは、どうしてバサーニオと親しく付き合っていたのか。
バサーニオは金食い虫だし働かないしお金が欲しくなったら
アントニオにたかってくる。
アントニオは船を使った貿易商人。
金を金をと無心するバサーニオにあげる様子に躊躇が見られない。

『バサーニオがお金に困るとアントニオは必ず彼を助けた。
 そのさまはまるで2人が1つの心と1つの財布を
 共有しているようだった。』

同じキリスト教徒同士だから…という理由だけではなさそうです。
もしその理由ならば
他の貿易商人もバサーニオにお金をあげて
バサーニオはお金に困ることなく一生暮らしていけるはずだからです。
ここに魚心あれば水心的な何かを感じます。

アントニオにとって大きなマイナスの出費のはずなのに
どうしてどんどんお金を都合してあげるのでしょうか。
また、お金の無心がなんども続いているのに
どうしてお金を更に都合してあげようと思うのでしょうか。

アントニオにはなくてバサーニオにあるものは権力です。
貴族という家柄。
下の階級であるアントニオが貴族のバサーニオに
金も身も惜しまずに尽くさなければならない
という美学でもあったのでしょうか。
他のキリスト教徒の商人がバサーニオと親しくしてはいないことから
それは違うことだと分かると思います。

アントニオも商人なので、お金の動きに目敏いはずです。
バサーニオと最も親しくすることで
バサーニオのために使ったお金よりも
もっと大きな利益が上がることを知っていたから
バサーニオの浪費に目を瞑っているのではないでしょうか。

そう、例えば…
A国との貿易権や
Bという品物の貿易権
を貴族であるバサーニオが自由にできる立場だとしたら…。

アントニオの場合は我慢をしている方向の
目を瞑っているというより
むしろ積極的に提供している方向がしっくりくる印象です。

さて、現代はイスラム教が世界宗教の1つになっています。
イスラム教にとってはキリスト教は
ユダヤ教と同じく古い約束の民のはず。
現代日本では、残念なことにイスラム教の民
主体の視点から見た文学作品に
お目にかかることが少ないように感じる。
現代日本がキリスト教寄りの立場にあるからイスラム教主体の話が
入ってくるのが知らないところで制限されているのかもしれない。
もしそうなら本当に残念なことだと思う。

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