2017年10月12日木曜日

物語という名の モノ語り ← イマココ

自分の中にある、自分の考えを覆っている常識といわれるような
フィルターのようなものをどんどん壊していっていると
それぞれの個々人には彼らの一人一人がもつ
独特な 物語 が存在することに気がついた。

人に会って話をするたびに
その人の物語に触れる。
いろんな人の物語に触れるたびに
私の中の物語も変化していく。
それは
変化していくというよりも
新しいページが書き加えられていく感じ。
まるで私自身がまっさらな下ろしたての日記帳かのように…。

脳が情報の記憶媒体だというのなら
私の脳はまっさらな下ろしたての日記帳かのように
まだまだ余白な部分が多いのかもしれない。

日記帳(どのメーカーのものであるかは問わない手作りでも可)
で例えるなら
新しく(古紙でも再生紙でも良いがこの、日記帳に追加するという
 意味合いで便宜的に新しくとここでは記す)
紙(書けるものなら何でもいいが便宜的にここでは紙とする)
を買ってきて
(くっつけるものなら何でもいいが便宜的にここでは糊とする)
とかで
とにかく紙をくっつけて日記帳の新しいページ
(日記帳という機能を備えた新しい領域としてのページという意味)
として…

みたいな感じで書かないといちいち難癖をつけて
(揚げ足をとるともいう)
話の枝葉
(端々)
をもって
(用いて、理由にして)
話の本質に耳を傾けない人がいるというか
非常に多いのに辟易する。

私が思うに、彼らにとっては
それが
嘘か本当かを見分けるための方法だ
と、とても強く思い込んでいるために
私から見れば、彼ら個々人の持つフィルターと
その彼らが信奉する嘘か本当かを見分けるためのフィルターとが
べったりと強固に張り付いていて
それを剥ぎ取ることは難しいように思える。

剥ぎ取ることはおろか、横にスリットさせてずらすことも
フィルター同士をくっつけている何かを
溶かし出すことも難しいように思える。

私自身のフィルターは
いわゆる常識といわれるフィルターから
ずいぶん距離があるように思うし
可能ならば将来は
常識フィルターよりももっと広いフィルターを備えたいと思うし
(やっぱり許容域といったほうがしっくりくる気がする)
許容域をもっと広げたいと思うし
私のフィルターの表面にたくさんくっついているレセプターの数も
増やしたいと思うし
可能ならばレセプターの種類も増やしたいし
大きさも大きくしたい。
もちろん極小のレセプターがあってもいいけどね。(笑)

お話、ずいぶん飛んじゃいましたね。

人に会って話をするたびに
その人の物語に触れる。
いろんな人の物語に触れるたびに
私の中の物語も変化していく。
それは
変化していくというよりも
新しいページが書き加えられていく感じ。
まるで私自身がまっさらな下ろしたての日記帳かのように…。

脳が情報の記憶媒体だというのなら
私の脳はまっさらな下ろしたての日記帳かのように
まだまだ余白な部分が多いのかもしれない。

日記帳で例えるなら新しく紙を買ってきて
糊とかでくっつけて日記帳の新しいページ
を随時足していっているような感じ…かなぁ。
もちろん私の経験してきた過去の物事は
私の記憶として日記帳のどこかに記されている。
くっつけた新しいページごとひっくるめて
私がどんどん更新されていく…そんな感覚。

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