私の中で祖母は春にいる。
それもほんのひと時の春の中だけれども。
高校に上がった春の事、行楽に行かないか、と誘われた。
祖母にしては珍しいことで
今にしてみれば想うものがあったのかもしれない。
とはいえ、どこにいくわけではない。
コンビニがまだ無かった時分のことなので
近所のスーパーで握り寿司を詰めて
少し離れた尾崎公園へ登った。
公園の桜は満開で、高台から眺める早岐の家並みが
薄く霞んでいたのはもう黄砂が飛んでいた時期だったからだろうか。
記憶というのは自分に都合がいいように修正されるものらしく
淡い美しい思い出にしたかったのかもしれない。
これが世に言う花見というものらしいと
ずっと後になって識るのである。
祖母は、名を よしの といった。
改名しているらしく
一度別の名前で届いた便りを目にしたことがある。
聞いても流されたので
祖母にとって、今でいう黒歴史だったのかもしれない。
父が亡くなって、私はもう一つの祖母に出会った。
桐の簡素な棺であった。
放蕩な父は、祖母に抱かれて逝ったのだ。
…書きながら聖母子像やピエタを想起したのだが
ちょっと父にはもったいなかったかもしれないと
思う私はきっと親不孝者なのだろう。
祖母が亡くなる前の春のこと
デイサービスでお花見に行ったそうで
楽しそうに笑っている写真が残っている。
日本を代表する花は染井姓だが
私にとっては、ちゃんと祖母がそこに居るのである。
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