2019年4月13日土曜日

今日の夢

出先で躑躅、シャクナゲ、クロッカスに
アイリスが咲いているのを見かけた。

今朝は水道・電気・ガスが使えない状況になったという夢を見た。
駐車場の、どの辺りで石組を組もうか。
近所から竹をもらえるだろうか
いやいや、竹は爆ぜるから。
落葉樹でも油を追加すれば火力は出るのではないか、とか
窓を開けたら大体いつもこっちから風が吹くので竃の方向は、とか
なんか、妙にシミュレートしてたので
延び過ぎている蔦を鋏で切って束ねて括ってみたりした。
最初の火を大きくする時くらいにしか役に立たないだろうけれど
無いよりマシかなぁ程度で。

ケムを頑張って撒いていたので
数日後に雨が降るのだろう。
3束だと心許ないので
道路沿いに生えてるのを見かけたから
今度採りに連れていってもらおうかなぁ…。
あれ、何ていう種類の草なんだろう。

それにしても1weekのサバイバルかぁ…。

猪原さんから海老鉈を買ったと思っていたのだけれど
今日は探しても見つからなかったので
もしかしたら買ったつもりだっただけなのかもしれない。
近い内に火打の道具も探しておいた方がいいだろうか。

春先の堤防道路

今日は諫早に行ったついでに堤防道路を通って帰った。
堤防道路の真ん中らへんに駐車場とお手洗いがある。
諫早側から行けば右手に調整池が
左手に有明海が見える。
道路に、そこは高架が掛かっていて
有明海側も臨めるようになっている。

白詰草に少し似ている赤っぽい花や菜の花が咲いていた。
日中の午後に行ったので
風は調整池側から有明海側へ流れていた。
遮るものがないためなのか、存外に強くて驚いた。

高架を上って有明海側へ移動すると羽虫が多かった。
ナナホシテントウも多く
黒と赤が反対になった種類も見つけることができた。
テントウムシがおおいということは、あの飛んでいる虫は
アブラムシ(飛行形態)なのかもしれない。
有明海側に調整池側からの水路の水が割と勢いよく放流されていて
海底の泥を巻き上げていた。

海だと栄養豊富な水が流入するところでは
(+日光の条件で)
植物プランクトンのブルームが起きる。
で、植物プランクトン→動物プランクトン→魚類
といった感じの順番でブルームがムーブメント化する。

ここの場合だと巻き上げられた泥のために
その経路は発生しにくいのだけれども
陸上の植物→アブラムシ→(風に飛ばされて)魚類
が発生していた。

有明海側の表面をしばらくじっと見てると
通常ではありえない位の頻度で魚が飛ぶ。
飛んで海面近くに飛ばされてきたアブラムシを食べているのだと想う。

で、アブラムシを食べるために寄ってきている魚を獲るために
鳥が3〜4種類は見かけた。
黒い鵜っぽいのとか灰色のサギっぽいのとか。
鵜っぽいのは、盛んに潜って魚を捕まえているらしかった。

調整池側に魚類を放しているという話は
まだ聞いたことはないのだけれど
日没後は見えないだけで魚がぴょんぴょん飛んでいるのかしら。

今の時期はアブラムシだから、まだいいものの
季節が進めば調整池から羽化した大量の別の羽虫が
池の周囲の地域に襲来する。
しかも夜に、明りに群がってぶわっと…。

島原に越してきてすぐの頃だから、4年位前になるのだろうけれども
夜の島鉄に乗って、すごく後悔した。

駅の明りに群がっている羽虫が
ドアが開く度に雪崩れ込んでくる。
ドアが開いている間中ずっと。

それを経験してから
夏の夜の島鉄には絶対に乗らないと固く心に誓った。
あれから数年経っているのだけれど
今年は…その羽虫のブルームが発生していないといいな…。

今の時期は、アブラムシに目をつぶれば
テントウムシと親しむことができる
いい時期なのかもしれない。
飛び魚ではないのだけれども
魚が飛ぶのを見たい人にも
おすすめスポットだ。
鳥に詳しい人には大分物足らないのかもしれないけれど
間近で鳥を見ることができるのもメリットかな。

で、帰り道に有明海側の殺風景になった堤防を眺めながら
花とか植物でアートすればいいのになぁ
なんて事を考えた。
まぁ、そんなことをしても
利用者数も少ない&利益も上がらない、となるなら
長崎県も諫早市も
そこにお金を掛けることは、しないように想う。
世知辛い。

もう1つ連想したのは天橋立。
陰謀論で知った知識だけれど
まぁ、ちょっと似てるなぁと。
規模と技術とその後の環境整備に関して
雲泥の差があるのだろう。

観光スポットとして整備する気があるなら
そこは観光スポットになるものだし
まぁ、そうするためには
まずは漁協との争いを円満解決に持っていくのが
先に来る課題、やね。

2019年4月12日金曜日

くじらナイフと防虫剤

くじらナイフで楠ブロックを削った。
ナイフ自体の扱いは慣れていない。
なんせ、小学生の時に鉛筆をカッターナイフで
少しの間削っていたのだけれども
いつの間にか止めていたし。

で、4つ目を削っていると手がバカになってきて
力が思うように入らなくなった。
刃先が軽く触れただけだったけれども
すぱっと表皮に1〜2mmの溝を作った。
まだこのナイフは自分では研いだことはないけれど
いい切れ味ですな。

ちなみにmyナイフはマッコウクジラ。
殺傷目的では無いので刃先が丸いのを選んだ。
シャチが好きだけど…無い物ねだりは、なぁ…。

で、どうして楠ブロックを削る羽目になっているのかというと
昔から使われている樟脳という楠に入っている成分で
洋服タンスの防虫ができるとwebでしばらく前に知って
購入したのだけれど
半年以上経ったらやっぱり香りがしなくなって
買った時の説明ではサンドペーパーでこすってね
的な書き方がしてあったのでやってみたのだけれど
うーん、苦労の割には、あまり効果があったようには
とても思えなかった。
大学時代から使っていた木の机に
思いっきりサンドペーパーで擦った跡が…。
ちょっとショック。 ノ×;

そんなこんなで猪原さんに相談したら
そんなんじゃ全然間に合わないでしょ
ナイフで削るといいよ、とアドヴァイスをもらって数週間。
今日に至る。

次の時はどうするかなぁ…。
いちおう削ってみてから新しいブロックを買おうか
樟脳オンリーを取り出した商品を買おうか
(多分値段高め)
それともまた化学合成の防虫剤に戻るのか
今の所は保留で。

ミュシャ展 マーメノイド イエルマリオ

ミュシャ展に行ってきた。
2019年の6月24日(月曜)まで
ハウステンボスの中の、パレス ハウステンボスで
展示があっているそうです。

パレス ハウステンボス内への入場料は、300円。
ハウステンボス内への入国料は
私が行った時の場合、ムーンライト4パスポート適用の時間だったので
5,400円だった。
まぁ、ここで5分待てば4,900円だったので
500円分は、お得だったわけだけれども
帰りのJRの時間を調べていなかったので、と言い訳してみる。
判っていても待つのがじれったい私は多分
待たずに同じ結果になったように想う。

胸元より上にアクセントというかヴォリュームというか
視点を誘導するのが特徴の1つだと想った。
現代にも通じる事だけれども
女性がイヤリングやネックレスを身につける理由の1つに
上に視線を集めるため、というのがある。
えーと、つまり…
『私を見て!』ということ。
イラストを見る限り、初期の頃の作品は
いわゆる中世ヨーロッパの華やかな
ファンタジーが展開されていた。
使用する布の量が多ければ多いほど
贅沢(で良い)とされた時代なのだろう。
モデルにされているのは、少なくとも農民…ではなさそうだった。
袖の感じや、しやなりとした優雅な身の収め方、仕草は
やっぱりかなり上流な人たちをモデルにしているのだろうと想う。
もしくは、当時の民衆が着たいな、と
憧れる理想の服なのかもしれない。
あー例えば現代日本で大正ロマンの服に憧れるみたいな。
懐古的なロマンチックで多分に幻想を含んでいて
それでいて少なくとも当時の民衆の心を
ぐっと惹きつけるデザイン。
あのイラストが多くの人の目に留まると
あの時代だって針子さんは沢山いただろうから
もしかしたらファッションのブームが起きていたのかもしれない。
そんな風に想像すると、結構楽しい。

胸元より上にポイントを持ってくる、そのもう1つの理由は
大量の無地の布を誤魔化すためだろう。
というのは、視線が散ると見てもらいたく無いものも
色々と見られてしまうからだ。
イラストに描かれる女性には無いものだけれども
例えば…足の傷のかさぶた、とか。(笑)

書きながら、ちょっとエロヒムの話を連想してしまった。
『傷は失敗の象徴だから』みたいなのがあった。
そうね…完成された美を描くイラストの世界には
それをテーマに採り上げるのでなければ
それは不要な存在だ。
私も今まで何人もキャラメイクしてきたけれど
わざわざマイナス要素になるものはつけなかった。
少なくとも私のキャラクターは
自分が演じる理想の私の姿であって
リアルが劣等感まみれなほど
あらまほしいと希う理想の自分は
美しく装飾するものだと想う。
自分のイマジネーションとセンスが許す限りにおいて。

話は変わるけれども、大分以前に
RO2オンラインゲームというのがあったと想う。
あれは、β版だったかの本格始動前で終わったはずだけれども。
あれに画期的(?)な概念が導入されていた。
付け黒子がレアドロップした。 ・×・;

泣き黒子とか鼻頭の黒子といったように
細かい部位が指定されているようで
装備すればするほどキャラが個性的(!?)になっていくという。
私は、流石に捨てた。
ゲーム全体が3D仕様だったので(めちゃ重かった)
2DのROのように数は狩れないし
戦闘にも時間が掛かっていたので
ドロップ率をかなり上げてあったのだと想う。

ギリシア辺りだっけな
古代彫刻とかに象徴されると言われているように
左右の均整のとれたプロポーションや構図が
やっぱり美しさの基本なのだと想う。
美しいと言われる顔も
パーツも並びも平均化するほどに美しく評価される。
端的な例は、ハーフ。
混血の人は面立ちが美しいというのは
有名な話だと想う。
まぁ、もちろんその大前提として
目立つ位置に黒子とかが無い事、があるわけだけれども…。

左右対称の構図が前提にあるからこそ
その後の時代に、それを崩すカタチが出て来て
NEWとなるわけだけれども
今の時代は、別の要素を取り入れつつ
それの再興が交互に行われて
さらにそこから分化して花を咲かせている。

例えば、意図的に左右の長さが違う靴下だとか
わざと片側だけに装飾がついているスカートとか。
ちょっとニュアンスは変わるけれども
もっと身近で分かりやすい例を挙げるなら
そうだなぁ…
ルーズソックスとか、かなぁ。
学生用の白靴下はある程度決まった型があって
きっちり真面目な印象がある。
で、ルーズソックスは、そこをわざと外したカタチにしてある。

ルーズソックスが発売された当初は
概念自体が無かったはずなので
学校の校則に『ルーズソックスは禁止』
なんていうのは、無かったはずだ。
流行った後に付け加えられた流れなのだから。
まぁ、私自身、履いたことはないのだけれども…。

〜〜〜
顔自体が個人識別的記号の集まりなので
ミュシャのイラストは、こう…
飾り立て過ぎているようにも想えた。
もちろん、美術の…特にデザインイラストの場合は
そういう美しさは重視されるものだけれど
現代の私から見ると、現実離れをし過ぎていて
だからこそあれを幻想(ファンタジー)として
どうしても捉えてしまう。
しかしながら、波動で表現されている全てのものは
受け取る側が持っているそれぞれのフィルターを通して
須く認識されるので
その作品をどう捉えるかに
正解は無いのだと想う。

〜〜〜
絵として、裸体で描かれるのは神で
人間は何かしら布を纏っているのだという話を聞いたことがある。
醜いから隠さなければならない、のだそう。
それが本当かどうかは分からないのだけれど
醜い部分は大体隠される。
ブルネットだったか、そんな感じの名前の(うろ覚え)装飾具がある。
(多分名前は違うだろう)
長い髪をまとめて、それで両耳を覆い隠すような形で用いる。
外耳の形はそれで個体識別が出来るほどユニークなものだ。
だから記号が多い。
なので、それを隠すことで平均化に近づいて抽象的になる。
鏡から我を外せば神になるのと一緒のことなのだろう。
いわゆるキリストが強烈な個性として逸話を残したのも
傷というエピソードが、あったからでは無いだろうか。
ロンギヌスの槍に聖骸布。
WW2では、その槍の所在の何如が
趨勢を決めた要因となっていたようだし…。
直接要因では無いものの
軍部の士気に大きく関わっていたのでは無いだろうか。
日本でいうなら、官軍扱いと認知されるのか
それとも賊軍として追われることになるのか、のように。
もっといい例えを探してみるなら…
天皇陛下の正当な血筋を示す証と言われる
3種の神器を持っているか否か、みたいな感じかな。

陰謀論で扱われている3種の神器は
一般的に言われているものとは違う形のようだった。
アロンの杖、マナの壺、十戒の石版。
日ユ同祖論が思想のベースになっているから、だと想う。
ぶっちゃけた話、一般人がふつーに暮らしていく上では
どーでもいい話だ。
まぁ、どの神器も取扱注意な代物らしい。
相手がエロヒムとか雷系の4次元存在らしいので
触らぬ神に祟りなし、が無難なのかもしれないなぁ。

ちなみにマナは真名井って言われているのだけれども
お米のことらしい。
日本人はお米が好き。うまー。
〜〜〜

ミュシャ展全体を通して見て、二重がとても多く描かれていて
大体そうだと感じた。
向こうの時代の実際の人々も二重の人ばかりだったのか
一重の人も混じっているけどミュシャのチョイスがそうだったのか
当時に生きていないので今の私では不明。
過去に行ったことがある未来人や
いわゆる宇宙人なら
そういうのを資料にまとめているのかもしれない。

日本人は一重の人と二重の人がいる。
細かく分ければ奥二重とか、多分色々あるんだと想うのだけれども…。
陰謀論の切り口で言われているのが
渡来系の、弥生人が一重なのだという。

以前に全然別口で長崎県を研究対象にした
頭蓋骨の本を読んだことがある。
その本によると、少なくとも
長崎県の住民の頭蓋骨の、まぁ、DNAは
多少偏りはあるものの、大体混じってる。
まぁ、長いこと大陸との交流口だった長崎を切り取れば
全国を見る指標になるのかもしれない。
あれを読んだ時ですら、JRも高速道路もあったのだから
国内でも人の行き来は(今ほどでは無いだろうが)
活発になっていたと想われる。

陰謀論では負のフィルターがベースになっているために
排他的に扱われるのだろうけれども
(もちろん彼らの理論や想いに理解を示すことはできる)
現在を俯瞰すると
そういう経緯があったので現在の日本人の顔に
豊かなヴァリエーションが出来ました
という結論に私的には落ち着いた。

乳酸菌の話でいうなら、だから現代に
ヨーグルトが発達したんだね、とか
そういう感じに落ち着いた。

まぁ、あれも捉え方次第で万華鏡のように見えてくる世界だから
知識の宝庫だし、面白くはある。

〜〜〜
ミュシャのは、流石にデザインイラストレーターなだけあって
1枚絵としてまとめるのが巧いなぁと想う。
特徴的なのは髪の毛先の配し方。
例えるなら唐草のように髪の筋をデザインとして
美的に昇華させてある。
文字のレタリングも独特だったけれども
数種類を使い分けていたのではあるまいか。
あとは足元の処理。
多分、本人には、こだわりがあったんだと想う。
そういうのができればなぁ、と想う。

植物のスケッチもあったけれども
デッサンが写実的。
いや、多分、これが基礎にして奥義だとか言われそうだけれども
私自身は、そっちの畑の人では無いので
そう言われても困る。 ・×・;

〜〜〜
対の作品が興味深かった。
幾つもの要素を対にしてある。
それに加えて、観る人に物語を匂わせるようなのも
面白いなぁと想った。

中期は、渡米して活躍されたのだそう。
人生の後半にしたいことがあったらしくて
それに向けて資金が必要だったから、らしい。
必要悪、みたいな感じだったのだろうか。
元の画風は残しつつも
世俗感に溢れた当時のアメリカの文化がイラストとして残されていた。
渡米して当初は
彼もカルチャーショックを受けたのでは無いだろうか。

後期は、祖国やアイデンティティーである自分の民族のために
私財を投じて描いたのだそう。
切手とか、お札とかにミュシャの絵があって
いいなぁ、と想ったことでした。

〜〜〜
デコルテを大きく開けた衣装も多かった。
あの辺りは記号も少なめで、イラストの上でも
なめらかな肌が美しい。
いわゆる中世ヨーロッパをぼんやりとイメージさせる服だけれども
だからファンタジーとして
よく使われるドレスのイメージと重なるのでは無いだろうか。

ミュシャ展を見てマーメノイドのキャラデザインを担当されていた
山田さんのイラスト(ティアラ)を想い出した。
あのゲーム自体も多分にファンタジーを含んでいるものだから
あの衣装と相性がいいのかもしれない。

ちなみに一番好きだったキャラはマーサ。
あれだけ親しく接していたのにも関わらず仲間にはならなかった。
ゲーム自体クリアはしてるので理由も何も分かるけどさ
今考えればあれ、フラグだったんだろうなぁ。

あとはムーン。
あれは一目惚れ。(ぐぐっ
あのこが私のシャチ好きの原点だと想う。

しかしながらあのゲームは
人魚といえばアンデルセンの人魚姫のみ知っていた私の
当時の漠然とした人魚観を
いい意味で崩してくれたゲームだったと想う。
ティアラの下半身とか
鱗あるけど海蛇みたいにぬるぬる蠢いてたし
あの膝辺りで必ずしも折れる形でなくていいのね、とか
柄もそうだけれど尻尾の形も
いろんなヴァリエーションがあってもいいのね、みたいに。

webで気になって調べていたら
ゲームアーカイブスで購入できるようになったらしい
とはいえ家はTV自体を撤去したので
そこから設備を整え直すのは面倒。 ・×・;
想い出だけで十分。
あったらあったで懐かしんでプレイをしてしまうだろうけれど
先の展開が解ってしまっているので
初回プレイ程は、どうしても楽しめないというのは
今迄に何度も経験したのだから…。

〜〜〜
山田さんのイラストとは
他でも出会っていたことがwebで検索して判明。
小野不由美さんの
『十二国記』シリーズのイラストを手がけられていた。

TWで私の好きだった絵師さんの1人に
高峰 名鳥絵師さんがいる。
主にダナイさんを描いて頂いた。

〜〜〜
帰りの駅で電車を待っている時に取ったメモから書き起こし。

ハウステンボス駅にて。
この春最後の肌寒い風が体温を奪う中
ハウステンボスの明りが水面の細波に反射したのが
とても印象的だった。
満ち潮の途中、薄明かりの暮れた空。
橋の向こうの静と、手前の動。

〜〜〜
あの空は薄暮というのかな、多分。
TRPGのルーンクエストの
イエルマリオ神の逸話として出てたように想う。
日没後のトワイライト。
儚い美しさに惹きつけられる。

花冠と劣等感

佐世保へ行っていた。
向こうでは桜がまだ結構残っているのに
ラッパ水仙と藤が咲いているという共演を見た。
春って、こんなんだったかな…。

別の用事の帰りしなにハウステンボスへ。
ミュシャ展を観に行ったのだけれども
そっちの話はまた後日に。

佐世保からのアクセスはとりあえず2つ。
JRとバス。
時刻の関係で今回は西肥バスをチョイス。
なんと正門ゲートのすぐ前まで行ってくれる。
途中で国際大学を経由するので
ちょっとしたツアー気分に浸れるのが面白かった。

そういえば今年か来年かに佐世保の市営バスが
統合して無くなるらしいという噂を少し前に聞いた。
当事者では無いので事情もさっぱり分からないのだけれど
元市民としては、ちょっと気になることでもある。

ハウステンボスを何年か振りに歩いた。
子供の頃にスタンプラリーでもらった陶器の
あのお洒落なミニチュア家屋がリアルにそこに佇まっていた。
本当は、リアルを模して作られていたはずだ。
あれから十数年経っても壁に黒カビがひく事無く
漆喰とか、塗装で頑張っているんだろうと想うけれども
子供の頃に抱いた想い出が色褪せる事無く、そこにあった。
それって多分、すごい事だと想う。

あの頃とは経営者も変わって
テーマパークとしてヴァリエティに富んだカタチで
発展を遂げたように想う。
これからも多分新しく変わっていくのだろうと想う。
カジノの複合施設は、どうなのでしょうね。
聞いた話では佐世保市が乗り気なだけで
テンボス側は消極的なのだとか。
構造考えたら、そうなるよね。
ハコモノって言われるのの典型を押し付けてるのだもの。

入国ゲートのちょい前から
小さな薔薇の造花で作った花冠が1つ1kで売られていた。
色の組み合わせも上品ですごく可愛いのだけれども
どう頑張ってみても私には似合わなそうだったので諦めた。
たくさんあるのだから、コーラスの
何かの舞台の時のちょい足し衣装として
使えないだろうかと考えたけれども
1個1kの段階で多分候補から外れるんだろうなぁと想う。
多分この花冠が似合うのは
まず、少女という幻想の時代のイメージを
そのまま大人にした女性かな、と想う。
少なくとも長い髪でないと…辛いと想う。

テーマパークは非日常を体験する場所なのだから
周りを気にせずに自分がこれと想った花冠を被って
自分に脳内麻薬を掛けれれば1番良いのだろう。
私には出来なかったわけだけれども…。

帰宅前のちょっとした引っかかりもあって
民衆が人を見た目だけで判断してしまう趣旨の昔話を
想い出して、残念に想う。

気にしなければ良い。
それはそうだ。
でも、私自身はかなりマイナスのフィルターが
強く掛かっているものだから劣等感が…。

宇宙人辺りの方達やスピリチュアルでは
全部、生まれる前に自分で魂レヴェルで設定してきているのだと
いうのだけれど…。
どの親の元に生まれるというのも自分で選んできたのだと。
でも、容姿って自分で選べなく無くない?

BJ先生だったら多分
そのままの君の顔がチャーミングだ、と言ってくれると想う。
(ってか、そのまんまの回があったし。)

いつか自分の劣等感を撥ね飛ばせるようになりたい。
撥ね飛ばせるようになって
自分が好きなものを好きだと自信を持って言えるようになりたい。
きっと後ろ指を指す人は何時になっても絶えないのだろうけれど
そんな人たちを気にしないで
自分の想うように生きてみたい。

虚勢を張っている、ちぐはぐな今の私。
今は、ここが精一杯だと想う。
毎日、自己暗示を掛けるけれども
これだけ劣等感でぐるぐる巻きされていることを考えると
今の私は自分史上奇跡だろうと想う。
この1年で、多分ものすごくアクティブになった。
行動範囲も思考範囲も。

服も自分でデザインした。
それをオーダーでお願いしてリアライズした。
思い切って使わない服を手放すことも
少しだけど出来るようになった。
センスは、TWさんのアトリエとかで
かなり磨いたんだと想う。
あの時期って雌伏だったのかぁと懐古してみたり、ね。

自己暗示切れたら、まぁ、辛い。
そんなもんだよね。
でも、マインドセット頑張ってるつもりだけど
それでも襲ってくるこの劣等感がなぁ…。
本当に、スタートの時点から
どれだけ大きなハンディを背負っているのだろうと想う。
五体満足なのと魂がすごく綺麗なカタチをしているのと
ドールボディがすごく若いことがアドバンテージなのだろう。
本当に、子供のような…。

今までの全ての選択の結果がこれで
自分が生まれる前に全部用意してきたとして
で、今はアセンションに乗っている状態だと想うのだけれども
全く実感が無いのが…困る。
今期のアセンションのガイドとして信頼されているのだと
スピリチュアルでは言われているみたいなのだけれど
でも、多分これはマインドセットしておかないと
ゲームからドロップアウトになっちゃうのだと想う。

こんなことを今の時期に、うだうだ考える事自体に
多分何らかの意味はあるのだと想う。

まぁ、とりあえず今は休もう…。

2019年4月11日木曜日

茉莉花

先日つぼみだった茉莉花が咲いていた。
甘く漂う香りは遠い異国のロマンを連想させる。
時期的には、もっと遅く咲くものと想っていたのだけれど
もしかしたら長い期間、花を変えて咲くものなのかもしれない。

美容室で頂いたサニーレタスを沢庵チャーハンにした。
油はオリーブオイルで。
鍋の底にご飯が焦げ付いて
ちょっとだけミート煎餅を想い出した。

2019年4月10日水曜日

頭を打った。

昨晩、頭をしたたかと打った。
原因は不注意。
相手はコンクリート。
脳の神経細胞が100万個単位で壊れたことだろう。
ずっと以前に、NHKの何かの番組で言っていた。
だから頭部に強い衝撃を与えない方が良いのだと。

壊れても再生というか、新しく回路を構築することはできるので
小魚強化週間を設けようかなぁ。
オリーブオイルも一応摂取しておこう。

陰謀論でヘッドシェイキングを誘導する音楽が
取り上げられているけれども
あれも脳にはよろしくはないらしい。
脳漿がある程度緩和してくれるのだろうけれど
データとしても目に見えないから
どれ位の影響があるのかを知ることはできない。
分からないけれど、とりあえず思考を処理する脳は大事だと想うので
気をつけることにしよう。

アジアン巻きスカート

浜の町で巻きスカートを買った。
アジアンな柄は夏に長崎県に暮らすなら、あってもいいかもしれない。
長崎の夏は…私の中では、ほぼ亜熱帯に近いイメージ。
湿度が高くて、暑くて…うだる。
夏はクーラーを掛けるけれども
どうしても外出しなくてはいけない時があるのだから
気分だけでもお洒落にありたいものだ。

色の組み合わせがあったのだけれども
質素過ぎず派手過ぎず…
自分的にバランスの良い配色のものをチョイス。
あと巻きスカートの良いところは
そこまで体型を選ばない、というところ、かな。

ベリーダンスと油分

しばらく前にベリーダンスの体験講座を受けた。
そこの方が主催をされているグループの体験レッスンが
島原万町ふれあいホールというところで、あるらしい。
7月4日(木曜)19:00〜20:00 費用は500円。

グループは『アプサラス キャラバン』。
長崎市でも活動をされているのだそうです。
アプサラスって、ゲームとかで時々用いられるけど
眠りを誘う踊りをする蛇だったかな。

ベリーダンスといえばキリィお姉ちゃんが習っている。
私の方が向けの体型をしていると
アドヴァイスをもらったことがあった。
体型は…生後数年の短いスパンの環境要因と
その後の長いスパンの環境要因が大まかに関係しているらしい。
長い方は自助努力でコントロールできるとしても
短い方は体型の器を決める限界値の設定の方なので
ここは大きくなってからでは
どうしようもないものなのかもしれない。

少し関連する話をIn Deepさんや
webのはみ出し広告で見かけたのだけれども
どうやら腸内細菌で摂取した油分の吸収を阻害する働きをするものが
研究で分かってきたらしい。
サプリメント業界とかって、そういうのに敏感な1面があるのかも。

腸の途中で油分が胆汁とかで分解されて
血中に吸収されるのだと想っていたけれども
いい意味で捉えると
油分の吸収を促進する腸内細菌が多くいる人は
胆嚢(たんのう)が使えなくなっても
ある程度は油分を取り入れることができるのかもしれない。

深海魚の中にやたら油が多い魚がいる。
魚かサメとかかは憶えていないのだけれども
以前見たTV番組で、食べたら下痢をするのだと言われていた。
原因は、その魚の油分が人間の体内では消化や吸収が出来ないから
なのだそう。
油分が多すぎて消化や吸収が追いつかないから
という理由なのかもしれないけれども…。

薬として強い下剤を使うよりは
こっちの方が体に優しい気もする。
手軽に手に入るかどうかというのがネックな気はするけれども
現代の技術があれば成分を分析してしまえば
工業的に合成できると想うのだけれども…。
結局、下痢というカタチになる以上は
第二の脳と言われる腸には、よくないのかもしれないなぁ。

2019年4月8日月曜日

かけっこと音楽

私は足が遅い。
子供の頃から、ずっとそうで
運動会のエピソードはいつも
私の足の遅さを家族中に
よく笑われたものだった。

順位をつけるのだから
全員が1番になれるわけではない
というのは私の言い訳だったけれども
誰も取り合ってはくれなかった。
と、いうのも、祖父がすごく足が速かったらしくて
それに家族自体が慣れていたせいなのかもしれない。

バブルより前の頃は
町内運動会の徒競走の1番の景品は
『柄杓』だったり『鉛筆とノート』とかだったりしたらしい。
私は参加賞以外は、めっきり縁が無いのだけれども
当時は、おおーすごいじゃんって言えるくらい
すごい豪華な景品だったのではないだろうか。
それを、走ったら貰える的な感覚で当時のうちの家族は
(私の父とか祖母とか大叔父とか)
捉えていたのかもしれない。

運動神経と一般的にいう神経組織は無いそうだけれども
足が速いという遺伝子は
私には受け継がれなかったようだ。
というよりも、育つ環境要因の方が大きいのでは?
祖父の思い出話を聞くに
尋常小学校に上がった時から
学校までの数キロの道のりを走っていったとか
学校では忘れ物とかをしたら運動場を何周か走ることになっていたり
担任の先生とクラスの皆で2つとか離れた山まで走ったりとか
そういう走る話が多かった。
あの当時はWW2よりも前の話だから
そこそこ物はあったのだろうけれど
担任の先生自体が走るのが好きだったのでは無いだろうか。

私は、というと
そんな小さい頃のエピソードもあって
運動は、ほとんどしなくなってしまった。
祖父と対照的なところがあって
祖父は、すごい音痴だったらしい。
聞いたことはあるけれど、音が外れたまま構わず歌っていた。
多分自覚はあったのだろう。
孫のお願いしたその時以外は、祖父の歌を聞いたことがない。
手を打ってリズムをとりながら知らない民謡のような唄を
また別の時には時には戦時の軍歌を歌ってくれた。
今考えるとリズム自体は、ずれていなかったし
音の高さが変わっていくのを無視すれば
上手かったのではないだろうか。
ただ、家族からレッテルを貼られて
私の前で歌うのはきっととても恥ずかしかった事に違いない。

大叔父は民謡の歌手になればよかったのにと言われるほど
上手かったらしい。
まだ1度も聞いたことはないのだけれど
今度お願いしてみようかしら。

父はビートルズ世代の少し上、なのかな。
洋楽は知っていそうだけれども
中島みゆきのCDアルバムをくれた位には
邦楽の方に熱心だったのではなかろうか。
父によると、母はビートルズ世代だったのだとか。
小学校の先生だったので家に立てかけ式のピアノがあった。
聞いた話によると、小学校の先生は
全教科を教える必要があるそうなので
水泳もピアノも美術も工作も算数も国語も
なんでもかんでも教えなくてはならないのだそう。
今の私から見ても、スーパー・ウーマンだなぁ。

今もそう呼んでいるのかは分からないのだけれども
ママさんコーラスに参加していた。
練習をつけてくれたのは
多分学校の近所にお住まいだったからだろうピアノの先生だった。
『チム・チム・チェリー』を繰り返し練習していたのが印象的だった。

祖母は地区の公民館で
あっていた合唱グループに参加していたらしいと知ったのは
母が亡くなって、もう何年も後のことだった。
楽譜は多分読めてない。
ピアノもおそらく弾いたことが無いから怖くて触れない人だったろう。
文字は読めるので印刷された楽譜にある文字と
よく分からないオタマジャクシの記号を必死に目で追いながら
音取りをしてくれる先生の音と
周りの人が歌う音に合わせて歌っていたのだと推測される。
学校に行っていないということで
ものすごいハンディを負っていたのだと想う。
だから基本は耳コピー。
私も、大概はそうだ。

私は高校までは出たし
選択は音楽だったけれども
楽譜を真剣に読むようになったのは
ほんの数年前からだろう。
長崎市を離れて、少し離れた地区の公民館で
軽い合唱の集まりがあると広報に出ていたので
申し込んだのが、きっかけだった。

行ってみたら地域の参加者の方々の年代に流行った歌を
1部、もしくは2部で歌う会だった。
見渡せば70台がゴロゴロ。
必然的に知らない歌ばかりだった。
中盤の会から認知度の高そうな特撮系の歌が入ってきたりしたけれども
それは先生の配慮だろう。
大半の人にとっては
よく知らない幼稚な歌と捉えられただろうから…。
楽譜を配られてから
さぁ、歌いましょう、となる。
電子ピアノで音取りをしては頂けたのだけれども
他の人は(すでにその曲を知っているので)軽々と歌う中で
必死で楽譜に書き込みながら初回はついて行った。

2回目は、会が始まるより30分早く会場入りして
1番に楽譜を受け取った。
会が始まるギリギリまで
音を簡単に目で追えるように同じ音が続くところを四角で囲った。
次の段、次のページへ飛ぶ際の音の高低差が
どれ位になるのか、傾けた矢印とともに差分を記した。
ひらがなで振ってある歌詞を言葉として認識するために
漢字仮名交じりで情報に書き加えた。

2回目は始まっても追いつかなかったのを見てとって頂いたみたいで
3回目は、先生も早めにきて下さった。

世代間ギャップって、すごいよね、という話なのだと想う。
開国以降、日本は目まぐるしい変化をしてきたのに伴って
世代間の知識の差が大きくなったのだろう。
ちょっと視点を変えると
共有出来ていた知識の割合が減った
と、言えるのかもしれない。
別の言い方に変えると
刺激が増えた、とか、多様化した、とかになるだろうと想う。

今後は調和や融合が鍵になるのだという。
例えば
細分化されたあらゆるジャンルの音楽が
『音楽』という
ひとつのカテゴリーとして認知されていくのかもしれないし
例えば
祝詞(のりと)も、その内に『音楽でもあるよね』と
認知されていくのかもしれない。

キリスト教は信仰を音楽というカタチに乗せて
広く教義を流布することに成功したのだと想う。
クリスマス・ソングとか、大体皆、知っているし
口ずさめると想う。
ちょっとマニアックなのなら
『オラショ』っていう分野(?)も合唱でもありますし
そうでなくてもイベントの時に歌う歌とかも
沢山設定されている。

ちょっと話はズレるのだけれども
言霊信仰というのがある。
真名信仰と被る部分は多そうだ。
視覚的な分かりやすい例えを比較に出すなら『写真』。
以前、写真が、そこまで普及していなかった頃
魂を吸われるからと言って写真に写ることを拒否する人がいた話は
有名だと想う。
あの写真拒否は、前提として真名信仰が、あるのだと想う。
真名を別の人に知られると自己支配権を奪われてしまう的な
そういう話。
相手が悪意ある人だったら『千と千尋の神隠し』の千のように…。

『正体を失くす』は、酒に酔ったりして理性のコントロールが
聞かなくなっている状態のことだけれども
(理性の加減のパラメーターが個性を構成しているのかも?)
『正体を奪われる』は、なんというか、こう…受動的だ。
剥奪されるとか、こう…無理やりひっぺがされて奪われるような
ニュアンスが、いやん。
のっぺらぼうという妖怪がいるという概念が
日本にはあることも原因の1つなのかもしれない。
もう1つの原因は、写真の原理についての知識の無知。
ごめん、私も原理をよく分かってない。
あとは…日本人は特に…恥ずかしがり屋さんだから…。

思考が言葉を作って
発した言葉が次の思考を作る。
音を伴った言葉は波なので伝播する。
伝播することで他者にも伝わって次の反応が作られる。
だから言葉は言霊になる。

楽しい感じの音楽を『楽しい感じの音楽』と認識するには
お笑いにお約束があるように共通認識させる記号が
幾つか揃っていることと、聞く人それぞれに
『これが楽しい感じの音楽ですよ』という共通認識が構築されていて
それが符合することで『この音楽は楽しい感じの音楽なのね』
と、認識されるように想う。

私は、1人で歌っているのを聞かれることが恥ずかしい。
それはそれは、もう本当に恥ずかしい。
歌は言霊だからだ。
だから動画でも顔は出さないし
(曲のイメージを優先したいという意図もある)
だからこそ1人で歌わなくてもいい合唱をしている。

祖母には以前、1人では何も出来ない意気地無し
とディスられたけれども
別にいいではないか。

所属では頼りにされるから頑張る。
褒められると、面映ゆい。
どう反応をしていいのか、よく分からない。
採り上げられると、周りに申し訳ない気持ちにもなる。
上手く出来るか、期待と不安が入り混じった。

これが等身大のわたし。
歌が好き。
そんな1人の、まだまだ、人間、やってます。