2017年10月19日木曜日

ニビルが見れない私 → ディザイア:水のようにしなやかに生きたい → あらまほし:支え合い

この天気は日本バリアの目隠し効果なのか。

曇時々雨、そんな状態が続いている。
少なくとも、21日までは曇が空を覆っているだろう
そう、思われる今日この頃。

朝日や夕日をじっくり観察できれば
ニビルと言われる惑星Xを見つける事ができるだろう。
少なくとも、早起きが苦手な私は
朝日を見る時間に起きることは難しいし
よしんばそんな時間に起きたとしても
朝日を見るために外を見る
ということはしないのだ。

次は夕日の言い訳。
住んでいる地域からは、少なくとも家からは夕日は見えない。
なぜなら山が西にどーんと立っているから。
動画でニビルが夕日のそばに並んで写っている動画を見た。
私も日本で見られるだろうか
いや、訂正。
本当にニビルきているのか
私の目で確かめられるならそれに越したことはない
と空がオレンジ色に染まったのを見計らって家の外に出た。
でも山が私の邪魔をした。

例え晴天の日の夕方であろうと
ニビルが見えるだろうと確信して夕日を眺める日本人は少ない。

・ニビルが見えるだろうと確信して
この段階で、目覚めた日本人(1%?)の中で
更にニビルのことを知っていて(X%)
更にニビルが地球に接近をしているということを知っていて(Y%)
更にいつ最も近づくのかの日付まで知っていて(Z%)
更にそれが物理現象だということを認知していて(A%)
更にそれが本当に起こるのだと実感できていて(B%)
更にそれが日本でも朝日や夕日と共に観察できるだろう
ということに思い至る事ができて(C%)
更にその観察を自分の目でしてみようと考えて(D%)
朝日、または夕日が見える時間帯に自分の自由な時間があって(E%)
住んでいる地域が朝日か夕日を見る事ができる条件が整っているか
移動手段として車を所持して
見えるだろう短い時間に合わせて見える地点まで移動する余裕があり
かつちゃんとその時間内までに移動できた場合(F%)
にプラスして
観察するのに十分なほど雲が少ない晴れた日の確率(G%)
は、いかばかりか…。

ニビルを認知していない人がたまたま太陽のそばにある
丸い何かを見たとしても
正常バイアスだっけな
慣性の法則のようなものが時間軸というものや
人間一人一人が持っているそれぞれの日常とか
精神面や心理面にもどうやら働いているようで
まぁ、とにかくそういうのが働いて
見なかったことにする、という
脳の情報処理から認知までの間での不思議な現象が起きる。
不思議というかなんというか
理性を司る大脳新皮質が
これは日常じゃない
日常じゃなければ非日常が起きているはず!
でも、そしたら予想外のことが多すぎるだろう
そしたら自分(その人)のいろんなところ
(日常,精神的バランス,生きる意義など)
が壊れてしまうだろう
そうなったら、自分(その人)にとって
自分らしい(と思い込んでいる)
社会生活という名の日常(と型を決めて思い込んでいる)
を送ってぶっちゃけ死ぬまで日常が続くんだ
と思っている、その根本をぶっ壊す非日常は
自分(その人)にとって想定外なので
「ん、見(認識し)なかったことにしよう」
となる。

けれど、その認識の外に外したはずの想定外が
事実となって怒涛の勢いで押し寄せてきているのを
見て見ぬ振りをしているのだから
実感したときの衝撃は、それはもう凄まじいものだろう
と、私は思う。
彼らの認知しなかった想定外の自体が全て現実になって
目の前に現れて壁のようになって立ちはだかるのだから。

これを全員が全員直視させられるのだろう。
どういう形かはニビルが最接近する場所と
その人(あなたかも、自分と置き換えてみよう)が
住んでいる地域との関係によるだろう。
海岸が面していれば津波が襲ってくるだろう
この場合
方位は問わない。
なぜなら津波は波だから回折するため。
津波の大きさも問わない。
距離や波の干渉によって規模の差異が出るため。
津波の温度は問わない。
距離や海流の温度や水塊の位置や温度によって変化するため。

海水には様々な汚染物質が溶け込んでいるが
それによる汚染やら地域差によってどのくらいどうというのも
上の津波という現象一つの例で挙げたように
言い出したらきりがないので割愛する。
もちろん、津波が来たらそのあとの諸々の
煩雑で
嫌な
めんどうくさいことや
衣食住ほか多岐にわたる障害の取り除きから復興
そして個々人がこれが日常だ
と思えるものになるまでの非日常は
それはもう、想像するだに恐ろしいほど
長い時間が必要なのではないだろうかと私は想像する。
想像もするが、私もあんまり想像したくないし
いちいちその私の個人的な想像と言っている
妄想かもしれない産物を
事細かに誰も見ないであろうブログで微に入り細に入り
書くのは時間の無駄だと思うので割愛する。

とにかく、だ、何日か後に非日常が襲ってくるだろう
と、私の頭はシュミレートしている。
これだけは言える。

で、『しなやかに生きる』ことができるようになりたいなぁと
思う今日この頃。
どこまでもしなやかに、柔軟に
いくら硬いものがぶつかって来ても
自分が壊れないように。

硝子(ガラス)じゃだめなんだ。
多分、水のように、でないと、ね。

欲望というよりも多分これは切望に近いんだと思う。
- 私はまるで水であるかのようにしなやかに生きたい -
そう、想う。

そのためには興味の種を見つけて水をあげなくちゃ。
ちゃんと芽が出るように…そのうち大きく育つから。
その芽を大切に育てるように興味を持った分野を更に見て
更に気になったところを細かく知ろう。
本葉が出たら、双葉は落ちても構わないのだから。

いろんなの興味の種子を見つけよう。
気になることなら、なんでもかまわない。
大樹になるまで律儀に待つ時間はない。
時間は、有限なのだから。
なるべく多くの種を蒔こう。
芽が出ない種があっても、かまわない。
草の種であっても、球根でも、羊歯や苔、キノコでもいい。
私の小さな心を覆う雑多な森ができる。
そしたら、スコールが降っても土砂崩れは起きにくくなるだろう。
周りが砂漠になっても、そこだけはオアシスになれるかもしれない。
そんな想いを託して…。

願わくば、乾ききった周りの人の心に水を分けてあげられるように。
そして、彼らのうちの何人かでも
その心の砂漠のどこかの1つでも ”種” があれば
芽が出てやがて大きくなる。
やがて花も咲けば実もつけるのだ。
実には次の種がある。
種は次の木になる。
ゆっくりでもいい
こうやって、次々と増えていけばやがて
その人の心に潤いを取り戻すことができるようになるかもしれない。
壮大な時間の果てに、いつかは…さ
日本よりも地球よりも宇宙よりも大きな単位で
そういう「支え合い」ができるようになればいい、と想うのだ。

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