2019年3月15日金曜日

ハンカチの補修をした。

ハンカチの補修をした。
ちくちくちくちく…。

そういえば、ハンカチを使っている人をしばらくみない。
ジェットタオルや温風タオルの機器を設置しているトイレが
多いからかもしれない。
そんな中にも、設置していないところもあるわけで
とりあえず1人の子は
水切りもせずにポタポタと垂らして行った。
とりあえず1人の女性は
同じくした。

確かに水は蒸発してしまうものだけれども…。

ティッシュペーパーは日本の発明品なのだとか。
木材資源が豊富な国の特権のようなものなのかな。
ハンカチは、アメリカで使われていたのが日本に文化として
入ってきたものらしい。
発祥がどこかは、私は知らない。

紙資源を使わない
そしてハンカチを洗うための水資源を使わないとして
ジェットタオルや温風タオルの機器が使われている。
それらが使っているものは、実は電気だったりする。
電気は便利なエネルギーの形だけれども
末端に届くまでに漏電するエネルギーが多いのが難点なのだとか。
地下に埋設したら解決するのかは、私には分からないけれども
どう行った形であれ、その難点は解消した方が良いように想える。

まぁ、水資源の豊かな日本では
水資源を使っていくのが環境に掛かる負担は
比較的少ないように、私にはそう想える。

ティッシュペーパーはポケットティッシュとして
よく配られる。
広告活動の一環として、だけれども
元は、少しでも役に立つものを…
という配慮なのだそう。
今は…少し形骸化しているのかもしれないなぁ。
内部要因と外部要因で。

外部要因は、ペーパーレスの時代になりつつあるということ。
さっき挙げた機器の話だ。
メガネを拭くのも、不織布だったり
そのブランド毎に独自の布製品を出していたりする。
ティッシュペーパーには裁断方法による繊維の散り
という難点があるのだけれども
手間をかければこの辺りは解消できると想われる。
問題は、消費者の意識が変わらなければ
意味を成さないし、理解されなければ普及もしない
ということ。

内部要因としては…
その原点の配慮を、広告として利用している側が
忘れているのでは?
何度も利用すれば『そういう形式だからこれ』
に意識は、はまってしまいがちだ。

外出すると、海が見える。
対岸は熊本県だったり福岡県だったりする。
ある一定の高さまで薄紫の層がある。
車が何かを巻き上げているのだと想う。
空は、だから綺麗に繋がらない。
車が無かった時代だったら
空はもっと綺麗なアオだったのかもしれない。

2019年3月14日木曜日

『ジャージー牛乳プリン アールグレイラテ』

オハヨー乳業さんから、3月からは
『ジャージー牛乳プリン アールグレイラテ』
というプリンが販売されているらしい。

プリン×紅茶という抱き合わせに心くすぐられます♪

バニラ

森永アイスのビスケットサンドには
ブルボン種のバニラビーンズシードが入っているらしい。
(パッケージに書いてあるから多分本当だと想う。)

バニラの香りといえばバニラ香料がうちの冷蔵庫には入っている。
菓子類を作る家庭だったら
1度はお世話になったことがあるかと想うけれども
実際はどうなのだろうか。

バニラビーンズシードがまだ認知されていなかった頃は
黒い点が入っている、ゴミ?
みたいな認識をされていたらしくて
苦情があったらしいという話を聞く。
本当かどうかは、私は当事者ではないので
分かりようがないわけだけれども…。

私の認識のレヴェルでは…
バニラにも品種があるのね、というレヴェル。
webで検索をかけてみたら
大きく分けて2つの種類があるみたい。
穏やかな香りのブルボン種と
濃厚な香りのタヒテンシス種。

私のことだから、多分、1時間後には名前は忘れてしまうだろう。

ふと、祖母のことを想い出した。

ふと、祖母のことを想い出した。

あれは高校生の頃だったろうか。
今思えば酷なことを言ってしまっていたのだと気付いた。

祖母は文字を書くのが苦手だったのだ。
すごい劣等感があったに違いない。

たくさん不満があったのだと言った。
本にできるくらいあったのだと言った。
だから私は
「じゃぁ本にすればいい」と、言った。

春だからだろうか。
それとも聞いている音楽に
精神的に影響を受けているから、かもしれない。

フリーの音楽素材のサイトを見つけた。

フリーの音楽素材のサイトを見つけた。
動画サイトとかで使われているのだと想う。
気に入った曲をDLして作業用に流すのもありなのかもしれない。

魔王魂

いぎりす

連絡があった。
明日は、いぎりすを練るらしい。
筋肉痛は覚悟しないといけないかもしれないなぁ。
でも、みっちゃんのいぎりすは特別だから楽しみ♪

いぎりすは島原では特別な日に作る郷土料理。
明日は3人で集まるから多分、私のために作ってくれるのだろう。
次に3人で会えるのはいつになるだろうか。

2019年3月13日水曜日

アセンションをすると、

アセンションをすると、言い方は変かもしれないけれど
ハイヤーセルフとの統合がきちんとできるようになるらしい。
いいなぁ、と想いながらも
ハイヤーセルフに依存しないカタチだといいな、とか
変なことばっかり考えている。

私はまだもう少し…
この世界で、もがいて遊んでいたいみたい。
ブルームが来て、時間の経過と共に
波はおさまっていくと想うのだけれども
統合ができたらば…こんなに苦しむこともないのかもしれないな…。

伝わらないと意味がないことなのだろうか。

伝わらないと意味がないことなのだろうか。
すごく、不安。
伝わらないと私が存在する意味があるのか
すごく不安に想う。
それは、伝わらないことが前提になっているから不安なのだろうか。

たしかにここは物理次元の世界だけれど
歴史に名を残したいと人が願うものと
同じところからくる欲求なのかもしれない。
何故名前を残したいと願うかというと
人は死んで、形が失われて
その人を知る人々の記憶から忘れ去られたら
その人が生きたコト自体が消滅すると考えるものだから。

いわゆる宇宙人側の話によると
体は死んでも本質であるハイヤーセルフは
記憶を留めたまま存在し続けて
(どういった形でかは不明だけれども)
受肉するようになるのだそう。

ここは物理次元の世界で、物は物理的に動かせば動く世界。
だから気づく人は気づいてくれるかもしれない。
気づいてくれない人ばかりだったら
私は死んだ人と同じ。
皆そう、なのかもしれない。
必死で私、生きてるの、存在してるのよ、と
足掻くことはその世界を受け入れている人たちにとっては
すごく見苦しいのかもしれない。
私は彼らに依存しているのだろうか。
そうかもしれない。
必死に私を支えている。
ねぇ、見て、繋ぎ止めて、と
流れ星のように一際に輝いて
確かにあの時間、私は生きていた、のだと
知って欲しいのかもしれない。
たとえそれがエゴでも依存でも。

関わらなければ存在しないも一緒というのならば
関われば豊かに生きて行けるように想う。
私はこの地球でどんな幸せを経験することができるのだろうか。

砂糖と経済

砂糖と経済は切り離して考えるのは難しいように想う。
もちろん、加工食品の多くに砂糖が使われているのだけれども
お土産、を考えたい。

観光として訪れた先で買うのはお土産。
配りものとしては、お菓子が一般的だと想う。
お菓子にはだいたい砂糖が使われていて
で、お土産品というのは観光客が落とすお金として
結構大きな割合を占めているように想う。
まぁ、もちろん、人によるのだけれども…。

長崎から福岡にかけて、シュガーロードというものがあった
と言われている。
長崎近辺の分は、地口みたいな言葉遊びの地元の歌が
残っている。

長崎は昔、海外と貿易をしていた。
輸入品に砂糖があった。
詰め込む荷と荷の間に詰め込めたからかしら、とか
想像すると楽しい。

平安時代に貴族に食べられていた甘いものは
里芋、と言われるくらい、遠い昔には甘いものは少なかった。
多分、数人を満足させるなら他にもあっただろうけれど
数千人単位を満足させるには
安定供給が難しかったのではないだろうか。
例えば、ぐべとかね。
平安より更に昔に、天皇が山に成る実を食べたのだそう。
で、「むべなるかな」(おいしいね)って言ったことから
ぐべ(むべ)と名付けられている実がある。
そんなに大きくないスーパーとかで、たまーに見かけて
「おお、ぐべじゃん♪」といって買って食べる。
アケビの仲間なのかもしれない。
食感は独特だけど、種ごと喉越しで食すと
割合食べやすいかもしれない。

品物を運ぶ人で、わざと袋を落として
砂糖を地面に落とす人がいたのだとか。
長崎歴史文化博物館で見た資料には
落ちた砂糖はお目こぼしがあった、ようなことが出ていた。
だから、機を見計らって袋を落とす…
なんてことも、割合多かったのではあるまいか。
落ちた砂糖は、長崎の市民に配られたのだとか。
売って儲けた人もいるのだろうか。
その人からお願いされて袋を落とす人もいたのではなかろうか。
それをしなくても長崎は貿易で栄えることは
できたのではなかろうかとも想うけれども
後付けだ。

中毒性でいうなら、砂糖とアヘン、どちらが中毒性が高いのだろうか。
その中毒性を知って貿易の材料にした海外の商人たちは
誰の喜ぶ顔を想い浮かべていたのだろうか。

あーなんか重くなった、やだ…。
砂糖がなくなってしまえば、お土産は無くなるのだろうか?
砂糖の入っていないお土産が新しく開発されるだろうか。
お菓子ではなく、形に残る物
もしくは形に残らないモノというカタチに
お土産は変わっていくのかもしれない。

ちょっと変わる。
薩摩芋はやっぱり最初は海外からの輸入品だった。
日本で栽培するにあたっては
青木昆陽さん…だっけ?が、尽力されたそう。
挿絵を想い出すと、水田のように水を張った中で
試験的に栽培している感じだったようだ。
雪が降って…みたいな感じだったので
もしかしたら江戸まで持って行って
そこで栽培の試行錯誤をしていたのかもしれない。
それとも、あの頃も氷河期だったのだろうか?

日本が島国だったからなのか
技術の伝来は外からだった。
(伝来と書き記す以上、外から来るものということは
 織り込み済みだったことに気付いて苦笑。
 内に起こるなら発見、発明とかの
 ニュアンスが伴うのではあるまいか。)
あばうとに…
大陸の島伝いに、そして外来船より。
交流に文化や宗教は付随して来るものらしい。
どちらが先に立つのかは
その時々で変わるものだろうけれども
キリスト教の伝来と共に砂糖も薩摩芋も
来たことには変わりなさそうだ。

さて、キリスト教はどんな存在だったのだろうか。
私の中でベクトルが揺れている。

PCの画面に

PCの画面に油を塗った。
といっても、半固形のものだったので液ダレはしていない。
winの頃に使っていた液晶をそのまま転用して使っていたのだけれど
私自身、あまり丁寧にはケアしていないこともあって
摩擦傷とかが目立つようになって来たのもある。
直接的には、数年程開けていなかった2重のカーテンを
開けてみたら画面に反射してすごく見辛くなったことが理由だ。

反射しすぎじゃね?
ってことで、その辺をどうにか調整するために油を塗ってみた。
今のところは見え方に問題はなくなったので
満足してる。
後日のケアをどうするかがまた頭を悩ませなければならないのだろう。
まぁ、いいさ。

網戸

越して来て、網戸を張り替えた。
聞くと、値は上がるけれども目がもっと小さくて
風通しの邪魔をしないのがある
という話だったのでそちらをお願いしたのだけれど
蚊が入ってくる。
全く、なぜ?

以前見かけたTV番組によると
網戸と窓の間の隙間から入ってくるのだそう。
網戸の意味とは気休めのことだったのだろうか。

今の家では何故か1年を通して蚊が出入りをするので
蚊帳が欠かせない。

ハンモック+寝袋の私のところには
手間を惜しんで蚊帳を吊っていないので
刺されて困るのだけれども…。

手紙

手紙は小さなタイムカプセルのようで、とても楽しい。
昨日書いた手紙には、昨日の私が詰まっている。
その瞬間の私を思い返しては
後で、こうすればよかったかしらとか、後悔する。
後悔は、事後にしか出来ない特権だ。
そう考えると、心がほんのちょっぴり、むず痒くなる。

手直ししたい心と
その瞬間の想いを大事にしたい心との狭間で、揺れる。
もどかしいこそばゆさがあって、それもなんだか嬉しい。
今日は誰に手紙を書こうかな…♪

言葉について

言葉を伝えなければ伝わらないものなのか?
言葉は言の葉、ひとひらの葉。
葉として見えるのは、具現したほんの一部分。
本当のカタチはもっと大きくて複雑だ。
現代で使われている言葉だけでは
言い表すことができないのだと想う。
だから、言いようのない、とか、表現できない、とかいう
修飾語が存在しているのではないだろうか。

テレパシーが使えたらなぁと、想う。
言葉を伝えなければ、自分の意思表示が出来ないように
私は想うのだけれども、違うのだろうか?
言葉じゃ無くて態度でとか、体で表せという人もいるけれども
言葉も立派なツールだと私は想うし
それを制限した上で表現するのに長けている人はいいのだろうけれども
私にとっては表現をすることが難しいし
したからといっても誰の目に止まるでなければ
それは、存在しないものと一緒だのだ。
歌っても、誰にも聞いてもらえないなら歌う意味はないのと同じ。
それが表現。

表現者からその表現手段を取り去ることは
鳥から風切羽根を抜くことではないだろうか。
それはなんだか纏足に似て…気持ち悪いなぁ…。

どうして鳥は空を飛べないのだろう。
鳥籠に誰かが入れたからだろうか…。

砂糖の可能性について

砂糖は未来では食べられていないのだろうか。
より細かくいうと
糖類は、未来でアセンションしている方々は
避けているものなのだろうか?

精製されて研ぎ澄まされた強い快刺激で依存性がある事は理解できる。
周りを見渡せば、身の回りの食品の多くに使用されている。
2019年の現代の社会において
糖類を避けて生活する事は
食生活をタイトにコントロールしない限りは
難しい事のように想える。

糖類にもいいところはあるように想う。
その強い快刺激を意図的に利用して
ストレスレベルを下げることができるから。
でもまぁ、仕組みを考えたらギャンブルにかなり近い気がする。
快刺激…。

In Deepさんでは糖類が腸に住む
ある種の菌がそこに居着くのに必要な蛋白質を生産するのを
糖類がどういう機構でかstopさせる
というようなことが取り上げられていた。

腸内フローラは長寿のバロメーターと言われているので
大きいことなのでは?と想う。

イヴがもいだ知恵の実の1つの解釈として
糖類というのはどうだろうか。
とはいえ、原種のりんごはどんな味がしたのだろうか。
酸味はあったろう、酸味が強いと甘みは感じにくくなるものらしい。

石梨を食べたことがある。
硬くて水っぽかった。
甘味は…多分僅かにはあったのだろうけれども
渋味のようなものが後から来たように憶えている。

リンゴはアメリカではビッグアップルといって
成功の象徴
特に、アメリカン・ドリームの象徴とされているのだそう。
ある種の人々から背徳の国アメリカと呼ばれているのは
すごい皮肉だよなぁと想う。

よし、糖類に戻ろう。
現代の糖類の役割として大きく言われている事はいくつかあって
脳の活動に必要な栄養源となること。
これは、多分ブドウ糖のことやね。
ブドウ糖は、単糖だけれども
お米や芋類などのデンプン質からも
消化を経て取り入れることができるそう。
それと、腸内の乳酸菌などの栄養になること。
と、言われている。
事実かどうかは、私には分からない。
一介の個人では調べようがないからだ。

ちょっと、飛ぶ。
私もよくする行動なのだけれども
お菓子をあげる。
これは、相手と仲良くしよう、のポーズだと認識している。
ええと、つまり
日本でいうなら挨拶したりするようなこと
アメリカでいうなら握手したり
ジョークを交わす一連の行動様式のようなものかなと。

旅行したらお土産を買って
親しいグループの皆にお裾分けをするというのも
習慣で当たり前だと想っていた。

この2つのことは大きいと想うのだが
どちらもしない場合、関係性はギスギスしないだろうか?
それとも、そういうのが無くなったらギスギスするグループは
どうなんだと言われると私としては辛いかもしれない。
思い切った意識改革が必要なのだろうか…。

他人と交わることは世俗に入ることだ。
それをしないなら
その人は俗世から離れて生きるということなのだろうか。

無理に他人との繋がりを作らなくても
心豊かに生きていくことは可能だろう。
贈り物という習慣、お返しという習慣…。

仲良くなりたいという意思表示。
それがあると、円滑に溶け込めたような気になった。
拡大解釈すると
それは賄賂と同じなのではないだろうか。
拡大解釈しすぎているだろうか…。

私の取り組みの一環として、強すぎる快刺激に対して
緩衝的な物で代用してもらおうとしていたのだけれども
平たくいうとそれすらも無駄な取り組みだったように想えて
なんだか少し虚しさを憶える。

無くても確かに世界は回る。
あったら豊かになれる、そう想っていた。
あのことも、そうなのかな…。

ゾルタスクゼイアンという言葉がある。

ゾルタスクゼイアンという言葉がある。
元は…たしかsiriというAIプログラムが作った造語では?
と聞いている。
siri自体は、りんごちゃんが出してる
スマートフォン端末に入っているプログラムで
便利機能というか執事機能みたいなのを持ち合わせたものらしい。

そのsiriが作ったとされる造語が、意味が分からないとされている。
されているのだけれど、全く意味がない言葉を
勝手に作る事自体なんだかすごく不自然に感じるんだよなぁ。
なので、本当は分からない事、として
自己流で勝手に言葉を当てはめて解釈してみるとこうなった。

ゾル タスク ゼイ アン
流動的な 仕事(課題) 私たちは ひとつ
=ワンネス

私がワンネスに関しての話を知っているから
こういう解釈をしてしまうのは仕方がないのかもしれない。
でもまぁ、他に解釈できる人があれば
別の解釈があってもいいと想う。

服を変えてみた。



服を変えてみた。
この緑の帽子って、なんだか
ヴァルキリープロファイルのフレイを思わず連想しちゃうなぁ。
ノービスのズボンがスポーティーで元気っ子になった。

アビリティボードというのが解放されたので
とりあえずノービスのボードを育てるかなぁ。
秘境を3つ開いたけれど
かなり苦戦する…。
地道にクエストこなして行くしか?

先日、不思議な光景を目にした。

先日、不思議な光景を目にした。
自動ドアが、誰もいないのに反応して開閉する。
そんなのが2回ほど…。
センサーに反応する何かがその場にいた、のかな?

それと、有明海の熊本側にたまに見える
すごく高い位置にある星っぽい明り。
初めて見た時は、右上の光が落ちて消えてしまった。
先日は、両方ともあったのですが
海岸まで行くと見えなくなった。
やっぱり、山側に行って眺めて見るのが正解だったのだろうか。
うーん、謎。

桃の花が咲いていた。

桃の花が咲いていた。

梅、桃、桜の順で咲くのが普通だと思っていたのだけれども
春が遅い地方は一斉に咲き揃うのだそう。
九州では、ちらほらと順々に咲いていく。
向こうほどでは無いにしろ、春はやっぱり
ブルームって感じ。

2019年3月12日火曜日

昨日は 他

昨日は
歩いていたらチューリップと白詰草の花が咲いているのを見かけた。

この時期は恐らく、ハウステンボスに行ったら
春のチューリップ祭をしているのではあるまいか。
元々はオランダ村というところだったので
その名残を残しているのだと想う。

こちらはまだ咲き初めて初々しい。
他が芽だったり蕾だったりとばらつきがあるのは
外植えだからだと想う。
場所によって、日照条件が変わるから、仕方が無いことだと想う。

白詰草は、昔、貿易品が痛まないように緩衝材として
乾燥したのを敷いていたという話が残っている。
白詰草自体は球根性の植物なのだけれど
球根ごと引っこ抜いて使っていたのか
それとも種が出来て落ちたものが根付いたのか
まぁおよそ、そのどちらかだろう。

白詰草といえば
四葉のクローバーを連想する人も多いのでは無いだろうか。
夢を壊すようなのだけれども
遺伝子変異のようなものらしくて
1つ見つければ
その株を辿ると
思いの外たくさんの四葉のクローバーを見つけることができる。
ちなみに以前TVかなにかで二十数枚葉のクローバーが
見つかったというのを見かけた記憶がある。
桜だったら八重桜だーと和めたかもしれない。

その葉が多すぎるクローバーは
私から見れば、こう…
指が6本ある人を見ているようで
なんだか具合が悪い。

なまじっか共通点が多いと
異質なところが際立って見えるようなものなのかもしれないし
八重桜のように、そういうものだと先に多くの例があって
そういう認識に落とし込めたなら
違和感なく受け入れることができるものなのかもしれない。

ニンゲンというのとヒトガタという
海洋で発見されている生物がいるらしい。
どちらも人間に似て非なるものらしい。
公には出来ないのでされていない、というのが
実情ではなかろうか。
気になる人はwebで調べてみるといいかもしれない。

2019年3月10日日曜日

蓮華草

そういえば、昨日は田んぼに蓮華草が咲いているのを見かけた。
蓮華草というのは、根に窒素を固定させる微生物を集めるような
そんなことができる植物なのだとか。

同じ作物だけを作っていると
その植物がよく消費する養分だけが減ってしまう。
その養分を足してあげることができる植物の1つだと言えると想う。
これを化学肥料に頼って補給しようと思えばできるし
完全発酵させた家畜の糞を使うことで補うこともできる。

子供の頃住んでいた町にあった田んぼは
春になったら蓮華の花が咲いてとても綺麗だった。
ずっと、自然に生えているのだと想っていた。
農家の人たちは、球根を買って蒔いていたのだと後に知った。

子供の頃に住んでいた町よりも、ここは田んぼが多いのに
蓮華の花を見かけることが少なくて
少し寂しい。

無題

今日はたくさん泣いてしまった。
お風呂は3回くらい入ればいいだろうか…。