2019年3月13日水曜日

砂糖の可能性について

砂糖は未来では食べられていないのだろうか。
より細かくいうと
糖類は、未来でアセンションしている方々は
避けているものなのだろうか?

精製されて研ぎ澄まされた強い快刺激で依存性がある事は理解できる。
周りを見渡せば、身の回りの食品の多くに使用されている。
2019年の現代の社会において
糖類を避けて生活する事は
食生活をタイトにコントロールしない限りは
難しい事のように想える。

糖類にもいいところはあるように想う。
その強い快刺激を意図的に利用して
ストレスレベルを下げることができるから。
でもまぁ、仕組みを考えたらギャンブルにかなり近い気がする。
快刺激…。

In Deepさんでは糖類が腸に住む
ある種の菌がそこに居着くのに必要な蛋白質を生産するのを
糖類がどういう機構でかstopさせる
というようなことが取り上げられていた。

腸内フローラは長寿のバロメーターと言われているので
大きいことなのでは?と想う。

イヴがもいだ知恵の実の1つの解釈として
糖類というのはどうだろうか。
とはいえ、原種のりんごはどんな味がしたのだろうか。
酸味はあったろう、酸味が強いと甘みは感じにくくなるものらしい。

石梨を食べたことがある。
硬くて水っぽかった。
甘味は…多分僅かにはあったのだろうけれども
渋味のようなものが後から来たように憶えている。

リンゴはアメリカではビッグアップルといって
成功の象徴
特に、アメリカン・ドリームの象徴とされているのだそう。
ある種の人々から背徳の国アメリカと呼ばれているのは
すごい皮肉だよなぁと想う。

よし、糖類に戻ろう。
現代の糖類の役割として大きく言われている事はいくつかあって
脳の活動に必要な栄養源となること。
これは、多分ブドウ糖のことやね。
ブドウ糖は、単糖だけれども
お米や芋類などのデンプン質からも
消化を経て取り入れることができるそう。
それと、腸内の乳酸菌などの栄養になること。
と、言われている。
事実かどうかは、私には分からない。
一介の個人では調べようがないからだ。

ちょっと、飛ぶ。
私もよくする行動なのだけれども
お菓子をあげる。
これは、相手と仲良くしよう、のポーズだと認識している。
ええと、つまり
日本でいうなら挨拶したりするようなこと
アメリカでいうなら握手したり
ジョークを交わす一連の行動様式のようなものかなと。

旅行したらお土産を買って
親しいグループの皆にお裾分けをするというのも
習慣で当たり前だと想っていた。

この2つのことは大きいと想うのだが
どちらもしない場合、関係性はギスギスしないだろうか?
それとも、そういうのが無くなったらギスギスするグループは
どうなんだと言われると私としては辛いかもしれない。
思い切った意識改革が必要なのだろうか…。

他人と交わることは世俗に入ることだ。
それをしないなら
その人は俗世から離れて生きるということなのだろうか。

無理に他人との繋がりを作らなくても
心豊かに生きていくことは可能だろう。
贈り物という習慣、お返しという習慣…。

仲良くなりたいという意思表示。
それがあると、円滑に溶け込めたような気になった。
拡大解釈すると
それは賄賂と同じなのではないだろうか。
拡大解釈しすぎているだろうか…。

私の取り組みの一環として、強すぎる快刺激に対して
緩衝的な物で代用してもらおうとしていたのだけれども
平たくいうとそれすらも無駄な取り組みだったように想えて
なんだか少し虚しさを憶える。

無くても確かに世界は回る。
あったら豊かになれる、そう想っていた。
あのことも、そうなのかな…。

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