2018年11月22日木曜日

シュレディンガーの猫

シュレディンガーの猫という命題(テーゼ)がある。
音楽で例えるなら『残酷な天使のテーゼ』を想い浮かべると
しっくりくるかもしれない。

この命題を簡単にいうと
自分が、とても可愛がっている猫が箱の中に入っている。
箱に継ぎ目はなく、中の様子を知ることはできない。
箱を開けると中の猫は死んでしまう。
箱を開けなくても猫は死んでしまう。
さて、あなたはどうしますか?

という突きつけられた命題です。

愛しいと想う気持ちと、その対象の死のジレンマがここにある。
私なら、やっぱり悩むだろう。
愛着の度合いと、中の対象を苦しめる時間が
比例(より正確には、正の二次関数のグラフを描く
(X軸では0以上とする))するから。
しかし、それは未練だ。

未練の度合いが大きいほど比例から
正の二次関数のグラフを描く(X軸では0以上とする)へと
移行しやすくなる。
それは延命治療を施すようなものだ。
どうせ死ぬのに。
延命治療をお願いしたのは家族(ここでは私)だ。
家族(ここでは私)の願いは、エゴだ。
これはどうやっても変えられない事実だ。

延命治療が愛だというなら
安楽死も愛なのだと想う。

いっそ一思い(ひとおもい)に殺してあげるのも
愛のカタチのひとつである。
愛はいつだって残酷なものなのだから。

もうひとつ、ここには死のカラクリが潜んでいる。
猫…がどうかは分からないが
少なくとも人間の魂においては
輪廻転生システムは崩壊したと聞いているので
同じ魂のまま、魂の記憶も受け継いで
どうやら身体も
{(健康的なor死んだ時の)&(時点or状態)}から
再出発できると聞いています。

**この辺りに興味がある人は、ご自分で調べられてみて下さい。
 私は、この記事を書いている時点では
 これ以上詳しい情報を識りません。
 なので、聞かれても返答できかねます。
 あなたの欲求を満たすものを求めるなら
 ご自身で調べられるのが一番でしょうから。

私ならどうするか…
私は、こんな残酷で狂おしい世界を築いてきた人間が大嫌いです。
でも、私は、こんな残酷で狂おしい世界でも
美しいと感じてしまうため
こんな世界を築いてきた人間を冷徹に切り捨てられません。

このアンビヴァレンスに苛(さいな)まれ
板挟み(ディレンマ)になり、悶え苦しみます。

そして、私が配慮すれば配慮するほど
その対象を真綿で絞め殺すようなことになります。
先の例だと、延命治療をお願いする、に同じ。

なぜなら、私がその対象に対して
どんな反応を示しても
その対象が持っている先入観というフィルターによって
対象が受け取りたいと想う反応を私がした
として処理されてしまう事実があるからです。

その理由は
大きすぎる情報を、その人の心が処理できないからです。
緻密で精密な脳はその全てを的確に処理しています。
何を、どう、的確に判断するかの基準を決めているのが
その対象の心(ココロ)だからです。

ココロは(地球時間 2018.11.22 の多くの方に認知されている
3次元限定の)物理学的に認知することは
私が知っている限りにおいては不可能です。
ココロをイメージングできるように簡単にすると
元々は弾力性があります。
ストレス(正確には、ストレッサー)を受けると
凹む(へこむ)のですが
弾力性があるので、ある程度までなら復元できます。

個々人固有の弾力性や復元力、耐久力(細かいところは割愛します)
などの要素によって
どの程度のストレスに耐えられるかが決定します。

そのココロの弾力性の度合いが小さい人には
悪く受け止める先入観というフィルターが強固に掛かります。
なぜ無意識にそうしてしまうのか?
自分のココロを守るためです。

その人のココロにとって
耐えられない程の大きなストレスの衝撃が
その人の心に襲いかかるからです。
そんなことされたら、ココロは壊れてしまいます。
ココロが壊れたら、人は死にます。
だから自己防衛反応が働いて
無意識にフィルターを掛けるのです。

そして愛着というのは
その対象についての関心の高さが指標の1つになります。
それも1方向的なベクトルをのみ、持つ(=『→』)のです。

そして、対象がご自身の情報を全て
(少なくとも私に対して)
開示してもらえるなら
(全くその人の情報を知らない状態で私が説明する場合と比べて)
もっとより的確で
その人にとって分かりやすい言葉で
(私はアンビヴァレンスとディレンマに悶えながらも)
伝えることができるでしょう。

尤も(もっとも)、この記事を書いている時点の
現実(リアル)だと多くの人が認識されている世界では
ご自身の情報を全て開示する人は稀です。
そして、地球という、この星に住むヒト族に限定しても
その人の全ての情報を他人に対して開示することは
ほぼ不可能です。
テレパシーを使えれば
弊害や超えなければならない障害はあるものの
比較的情報を伝えやすくなる優秀なツールとなり得るように
私自身はこの記事を書いている時点で考えています。
だけれども、残念ながら、私自身はテレパシーは使えないのです。

なんかキリがいいのでここまでにします。

0 件のコメント:

コメントを投稿