とある方のブログを読んでいて、『2001年宇宙の旅』という映画?の幻想を思い込ませるために宇宙開発を続けなければならないという話だった。
オデュッセイアという単語が出てきたので、ウィキペディアで見てみると、かなり長い放浪の旅みたいなニュアンスのことが出てきた。
トロイア戦争の後の話らしい。
全部で24巻あるらしく、イーリアスと同じ位の長さだ。
こちらはもうすぐ読み終わるので、今度はオデュッセイアを読んでみようかなぁ。
聖書を信奉している人たちは、彼ら自身が長く放浪している人たち(ユダヤ人)である、と思っている人たち、(そうでなければならないと思う人たち、そうでありたいと思う人たち)だったりするのではないかと思う。
彼らには選民思想がある。
自分たちは、選ばれた民であるという考え方。
そして、古いユダヤ信者ではなく、新しくユダヤ教に入った人たちは、ユダヤ民族ではないそうだ。
聞いた話によると、ユダヤ人とは人数的に少なくなったので、ユダヤの聖書や教えを受け入れる人たちを歓迎したという面があるらしい。
そういう人たちは、もしかしたら、他の国のルールや宗教的価値観から、あぶれたものたちなのかもしれない。
長く放浪するというニュアンスからは、カインの末裔を彷仏とさせる。
周囲の社会から受け入れられない自分たちは、カインの末裔なのかもしれない、と強く思いたいのかもしれない。
もしかしたら思いたいのではなく、それをなぞることで、自分たちがそうなんだ選ばれた民なんだと、強く主張したいのかもしれない…声なき声で。
昔遊んだゲーム『オーディンスフィア』の中で、予言の書の通りに、ことを運ぶことで終末(予言の書に描かれている終末)を正しく実現させようとしている集団が描かれていた。
主人公サイドにしてみれば、狂気の沙汰だ。
一般人から見ても、狂気の沙汰なのだろうけれども、一般の人たち(民衆)には公にされていない。
もしかしたら、もしかしたら…彼らはそれを繰り返し繰り返し、強くなぞることで、自分たちが選ばれた民であると主張しているのかもしれない。
(彼らを受け入れない)世界は、彼らにとっては腐敗で溢れていて(世の末)、今が世の末なのだから、救世主が現れて自分たちを救ってくれるはずだ。
自分たちは、正当な神の血筋のもので、カインの末裔なのだから腐敗しきってたこの世界に馴染むことなどできない。
自分たちは、神に選ばれた存在なので、救世主が現れてきっと自分たちを助けてくれるだろう、そのはずだ、そうでなければならない。
そう思い続けることで、彼らは自分たちの国を持たないというアイデンティティーの喪失の代わりに、新しいアイデンティティーを獲得したのではないだろうか。
世界中を旅して、それでもどこにもなじむことができなかった彼ら。
東の果ての園(エデンの園=日本)にたどり着いたものの、そこの住人は排他的であった。
彼らは、力ずくでどうにかしようとするのだろうか。
太陽と北風を匂わせてしまう。
日本としては、(私個人としては)社会の共通ルールを守って、治安を乱さなければ、隣人として歓迎できるのではないかと思う。
ただこれは、理想論なのかもしれない。
彼らがそれを今までできたのなら、こんなことにはならなかったはずだからだ。
そして、私の住んでいるところが川口市では無いから、机上の空論を書くことができるのかもしれない。
当事者だったら、きっととんでもないこと、と思うのだろう。
距離がある程度ないと、心の余裕もなくなるから…。
ん…?
これが、ソーシャルディスタンスという意味だろうか?
半径2メートル…。
2メートルの距離があれば、ナイフで刺される心配はしなくていいのかもしれない。
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