動画を見ていて思ったことがある。
前々から何度も反芻していることだけれども…。
人々が1人でいろんなことをやっていた時代とは違って、社会の構造も、分野も1人でカバーするには広くなりすぎて複雑にもなりすぎた。
確か映画『モダンタイムス』に象徴されるように、(チャップリンが出ている映画だったような)、1人ひとりが社会を動かすための1つひとつの歯車になって社会を動かしている、というのが現代社会(先進国限定)だと思う。
私は日本に住んでいるので、具体的に日本の例ぐらいしか、わからないのだけれども…。
スピリチュアルとかでもいわれるように、(真実系かなぁ陰謀系かなぁ?)いわゆる大学では、それぞれの分野が分かれていて(もちろん専門学校も専門分野を履修する教育機関だ)専門化することで、まぁ…狭く深い知識を手に入れることができる。
1人ひとりが狭く深い知識を複数の分野にわたって保持することができないので(集中するためにも)、役割分担をするという意味で『分化』と呼ばれる。
学校卒業して社会に出て、会社に勤める人には会社の中での1つの歯車として、家庭に入る人も、家庭という社会の中の1つの歯車として、役割を担うことで自己承認欲求も満たすことができるし、周りからも感謝される。
『分化』自体は、構造の形式なので、別に悪いものではない。
そういうシステムを採用しているというだけのことだ。
だから、『分化』に、なりすぎている人の深層心理や思考回路としては、一所懸命自分が頑張っているのだから、それより他のところでトラブルが起こったら、自分のせいではない、その担当の人たちが悪いんだ、となるのだと思う。
『他責思考』と呼ばれる考え方の形態なのだろう。
逆に『自責思考』が強く働いている人は、自分の周りに集まってくるトラブルを、いわゆる自責の念として捉えてしまって、他責思考の人たちがとても多いこの社会では、心の病気や脳の病気というふうに捉えてしまわれるものらしい。
ただ単に、物事の捉え方が違う、ということなのだけれども…。
広く浅くできるようになる事と、狭く深くできるようになることは、状況によって良い面も悪い面も現れてくるのだろう。
ただ単に、違う要素を持っているというだけなのに…。
一方の立場の人は、自分たちが間違っていなかった、と思い込みたいあまりに、バイアスがかかっていて、もう一方の考え方をなかなか認めることができない。
それ自体は、人間の心を守るために必要な機能なのだろう。
だからといって、自分とは価値観が違う人たちに対して、攻撃したり強要したりするのは、やはり違うのかもしれない。
お互いに、お互いの価値観わかり合えたら、お互いに住み分けて、コミュニティーとしても良い関係に落ち着くようには思うのだけれど…。
実際に実現できるかは、かなり難しいのかもしれない。
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