2019年3月6日水曜日

『連想』の活用

補助する道具なのか足枷なのか。

空豆の色が悪い。
もちろん、乾燥させた空豆で
酸化防止剤などが添加されていないからだ。
体にはいい、はず。

ずんだ餅を食べた事がある。
青果の空豆の色をしていた。
また食べる機会があればチェックしてみよう。

色鮮やかなものを美味しいと想うのは
本能だろうか、それとも、刷り込みの結果だろうか。

もう焼かれて食べられる状態のソーセージを食べる。
断面は、薄いピンク。
加熱されてタンパク質は変質済みのはずなのに何故か赤みがある。
以前は、それが普通だと想っていたし
無添加のものを特に選ばなければ
お店で手に入るハムやソーセージなどの加工肉は
発色剤が添加されている。

食が進むことはいいことのはずだと想う。
潤いが出るし、何よりストレスが軽減される。

今までは足りないところを補ってきた、という面もあるのだろうか。
よく言われるのは、利益を求めて
原料のより安いもので,より簡単に加工できるように
というものだ。
企業は利益を追求する性質を持っているので
ある程度仕方がないことなのかもしれない。

ひところには公害による環境汚染がひどかった時代があったと
教科書には書いてあった。
今はどうかというと、比べれば酷くない、見た目だけは…かな。
海は最終処分場扱いだ。
土はダイオキシンまみれ。
人間の目では視覚的に見えないだけ。

技術…技術が足りないのだろうか。
技術だけ先行しても持て余すことを原子爆弾は教えてくれる。
伴わないといけないのは、高い倫理観なのだろう。
また、放射線や核に関する誤解も
先に解かれなければならないのではないだろうか。

添加物は、人によってはまだ必要だと想われる。
今はまだ移行期で、全ての人が覚醒の段階に入っていないからだ。
太陽と地球が周波数を上げてくれているので
負のフィルターが薄くなっている人が増えてきているのだそう。
添加物は、覚醒するための足枷になるように想う。

越えるための壁なのか、ハードルなのか。
それに代わるより良い物質を見つけなければならないのか
それとも、それ無しでも食べ物や食事を
美味しいくて楽しいものだと認識できる正しい知識を
多くの人が身につけていく事が必要なのだろうか。
土台のしっかりした調理技術の普及も
あった方がより良いのではないだろうか。
物質に対する知識と理解、使い分け…。
全てのものが繋がっているという意識を持つ事で
初めて総合学習が進むような気がする。

学校教育は体系的に物事を教えるために分野を分けてきた。
上に上がれば上がるほどに複雑化し
道は狭くなっていく。
専門家としての知識は得られるけれど視界は狭くなる。
それは…欠点なのだと想う。

視界を広げる事ができれば覚醒に近づくのだけれども
そのままだとなかなかに難しい。
なので、『連想』を活用するといいように想う。

連想を繋ぐことで関連性が捉えられるようになる。
捉えた関連性が増えていくと、その内に
全てが繋がっていることに気付く事ができるようになる
ように想う。

例え話も、いいよね。
話し手の意図する要点を
ちょっとだけレヴェルを落として説明する手段。
共通する要点(言いたい事)は何でしょう、ということ。
それを探させることは、関連性を探す訓練になるように想う。

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