2024年2月16日金曜日

カインとアベルについて、から。

 確か、旧約聖書にカインとアベルの話があったと思う。

僕も、本物は読んだことがないので伝聞の情報だけなのだけれども。

曰く、神に「今年の収穫物です」とカインとアベルの兄弟が捧げ物を持って行ったときのこと。

カインは、「おかげさまで今年は、これだけ実りがありました。ありがとうございます。」と、穀物を見せた。

神が受け取ろうとするとカインは、「すべては困ります。来年の種まき用の分が必要ですから。」と言い、全てを差し出すことを躊躇しました。

神が受け取ろうとするとアベルは、「今年生まれた子羊です。」と、丸々1頭を差し出しました。

なので、神はアベルの差し出す捧げ物を受け取り(選び)ました。

捧げ物を受け取ってもらえなかったカインは、アベルに嫉妬してアベルを殺してしまった、という話だ。


ウィキペディアを検索してみると、もうちょっと生々しい感じで書いてあったので、私が知っている話は、子供用などにソフトタッチ化されているものなのかもしれない。

しかしながら、重要なのは、カインとアベルという兄弟がいたこと、アベルの捧げ物のみを神が選ばれたこと、嫉妬したカインがアベルを殺してしまうこと、カインが嘘をついたこと、という点だ。


私の知っている、ソフトタッチな方では、正直にすべての実りを見せたカインなのに『正直者が馬鹿を見る』経験をしている。

なぜならアベルは、今年生まれた全ての子羊を差し出したわけではない。

アベルは、今年生まれたすべての子羊の中から1頭を選んで差し出したからだ。

麦1粒と子羊1頭では、大きさも値段もだいぶ違うだろう。

しかしながら、労働者にとっては、同じだけの価値があるものなのだろうと僕は思う。


相手が神なので、なぜ子羊を選んだか、は、その神に聞いてみないとわからないけれども、単に肉食だったのかもしれないし、カインが見せたすべてをくれないから戸惑ったのかもしれないし、気分で選んだのかもしれない。

どちらにせよ、神は捧げ物の片方を選びとり、選ばれなかった方に不名誉を与えたことになってしまった。


おそらく一神教であるユダヤ教の世界では、神様に捧げ物をするというのは名誉な(尊敬されるべき)行為だ、と、彼らのコミュニティー内では重要視された価値観なのだろう。

例えば教会組織は、対比を用いてカインよりも、アベルの行為が推奨されると民衆に説いただろう。

(私がひねくれているので、そういう解釈しかできないのかもしれないけれども)協会組織の繁栄のために、もしくは協会組織自体の権威付けのために…。


…などと考えると、カインとアベルの兄弟の話は、もしかしたらでっち上げの可能性があるのかもしれないなぁ…と考えてしまった。


そこまで、長々と書いてきたのだけれども、『嘘は泥棒(犯罪)の始まり』や『嘘の上塗り』という言葉が日本にはある。

1つの嘘がきっかけで次々と嘘が嘘だとバレないように覆い隠すためにさらに嘘をついていって、その嘘の雪だるまで身動きが取れなくなってしまって、それを打破するために大きな犯罪を犯すことになってしまうという戒めの言葉なのではないだろうか。


現代の科学や歴史、政治、経済や宗教…ありとあらゆる分野で、もう嘘が隠せなくなってきて、彼らも身動きが取れなくなってきたようだ。

根本の1つの嘘が見直されることで、この世界は、価値観が大きくがらりと変わっていってしまうのかもしれない。

私個人的には、この世界はとても生き辛いので、早くそう変わってほしいと思っている。


反面、自分を振り返って、言葉の端々や考え方なども、少しずつでもいいので考えて気をつけて変えていくようにしなければならないのかもしれない。

少しずつでもいいので考えて気をつけて変えていくようにしなければならないのかもしれない。

でなければ、回り回って自分にブーメランとして返ってきてしまうかもしれないからだ。

悪には加担したくない、と思うからだ。


例えばそれには、『気→氣』と書くところから、とか。

この漢字を目にするたびに、バイアスが働いて、極右の人かなぁ、と思ったりするけれども、本当はそういうバイアスを外していかなければならないのではないだろうか。

なぜならば、『氣』という漢字をチョイスする事は個人の自由であり、普通に使われていないだけで、正式な旧字体だから。

そして、この漢字自体には特定の思想が含まれているわけでは無いのだから。




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