2019年1月24日木曜日

『アーメン』の意味 etc…。

キリスト教の歌の終わりには『アーメン』という句がついている。
これは、ヘブライ語で『そうありますように』
という意味だ。

キリストのそうあった姿や
平和を願う人々の願望が歌には込められていて
最後に、『そうありますように』
と、加えてそうあってほしいと願いを託している。

私の解釈はまぁ、自己流だけれども
キリスト生誕をモチーフにしてある歌の歌詞を見ると
嬰児は光であるとされている。
キリスト教によるキリスト教徒のための
キリストをモチーフにした歌なので
キリストの生誕自体を救世主の誕生と重ね合わせてある。
だから、祝福を受けて歓迎されるのだ、的なテイストが
穿って見れば無くはない。
だけれども、歓迎されずに生まれる命は
あるのだろうか。
全ての命は歓迎されて生まれてくるのだと私は想う。
だから新しい命は光であり、その穢れない在り方を
純粋というのだと想う。

人の世は穢れているというのが前提にあるから成り立つのだけれども
では、どうして人は純粋な心のままでいることができないのだろうか。

親たちは、かつて祝福をした子に
穢れている人の世の理を無意識に知りながらも
これが祝福だと偽って教育するのだろうか。
『これがキミが生きていく世界なのだ』と…?

光は、自由だ。
心の想うままに物事を為す。
子供のように純真で、てらいない興味、それが個性。
困るのは親。
本当は困らなくてもいいのに、ね。
自分が困るから、自分が困るのが嫌だから
自分が困らないように子供に教育する。

本当に、『しつけ』なんて言葉は誰が考えたのだろう。
たけしさんがいうように
『作法』や『礼儀』という言葉に置き換えれば
その言葉に対する印象がガラリと変わるだろうから
親の層への意識改革が起こると想うのだけれども…。

どうして親は困るのだろうか。
何かあったら責任問題が生じるから。
ほら。
やっぱりそこに戻ってくる。

皆が責任から逃げるから皆が病んでいく。
そして、状況をリセットしたいから救世主を勝手に望む。
そしてその人に皆の責任を押し付けて、救われた、と美化する。
このシステムはヤヴァイ。
どこかで鎖を断ち切らないとエンドレスで増殖する。
だって、救われた、といったからといって
彼ら自身は自己を改善しようとはしないのだから。
自分たちでまた責任を押し付けあっていく。
彼らは過去に現れた救世主にすがるし
以前生まれたんだから、また現れるだろうと考える。
またこの思考ルーチンなのか。

そして生まれた子は
最初は全て光の存在なのに
自分たちの都合で歪めて、染めていく。
彼らの中で決めたルールに従わないような
彼らに都合の悪い存在は悪だから
だから、教育する…?

王政が無くなって民主主義になって
多数決が正義になってからは更に歪んだ。
大衆を扇動すれば自分たちが正義になれるのだから
そのためにマスメディアが利用された。
技術としてのメディアは悪いものではない。
宇宙人だって同じ原理でもっとハイレヴェルなものをだけれど
見ているのだもの。
マスコミがマスゴミになっちゃったのは
だから、人間の欲望が、その在り方を曲げちゃったんだよね。

光のまま大きくなっても結局は排除されていく。
それが2019年1月24日の、この現実世界のあり方。

22日のスーパームーンからは精神世界的には大きく変わったらしい。
今までよりも、さらに多くの気付きが与えられるということらしい。
気付くか、気づかないか。
私の言葉ではない。
2062年から来た未来人の方の受け売りだ。

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