2024年2月21日水曜日

『分化』の罠かもね。

 動画を見ていて思ったことがある。

前々から何度も反芻していることだけれども…。


人々が1人でいろんなことをやっていた時代とは違って、社会の構造も、分野も1人でカバーするには広くなりすぎて複雑にもなりすぎた。

確か映画『モダンタイムス』に象徴されるように、(チャップリンが出ている映画だったような)、1人ひとりが社会を動かすための1つひとつの歯車になって社会を動かしている、というのが現代社会(先進国限定)だと思う。

私は日本に住んでいるので、具体的に日本の例ぐらいしか、わからないのだけれども…。


スピリチュアルとかでもいわれるように、(真実系かなぁ陰謀系かなぁ?)いわゆる大学では、それぞれの分野が分かれていて(もちろん専門学校も専門分野を履修する教育機関だ)専門化することで、まぁ…狭く深い知識を手に入れることができる。


1人ひとりが狭く深い知識を複数の分野にわたって保持することができないので(集中するためにも)、役割分担をするという意味で『分化』と呼ばれる。

学校卒業して社会に出て、会社に勤める人には会社の中での1つの歯車として、家庭に入る人も、家庭という社会の中の1つの歯車として、役割を担うことで自己承認欲求も満たすことができるし、周りからも感謝される。

『分化』自体は、構造の形式なので、別に悪いものではない。

そういうシステムを採用しているというだけのことだ。


だから、『分化』に、なりすぎている人の深層心理や思考回路としては、一所懸命自分が頑張っているのだから、それより他のところでトラブルが起こったら、自分のせいではない、その担当の人たちが悪いんだ、となるのだと思う。

『他責思考』と呼ばれる考え方の形態なのだろう。


逆に『自責思考』が強く働いている人は、自分の周りに集まってくるトラブルを、いわゆる自責の念として捉えてしまって、他責思考の人たちがとても多いこの社会では、心の病気や脳の病気というふうに捉えてしまわれるものらしい。


ただ単に、物事の捉え方が違う、ということなのだけれども…。


広く浅くできるようになる事と、狭く深くできるようになることは、状況によって良い面も悪い面も現れてくるのだろう。

ただ単に、違う要素を持っているというだけなのに…。


一方の立場の人は、自分たちが間違っていなかった、と思い込みたいあまりに、バイアスがかかっていて、もう一方の考え方をなかなか認めることができない。

それ自体は、人間の心を守るために必要な機能なのだろう。

だからといって、自分とは価値観が違う人たちに対して、攻撃したり強要したりするのは、やはり違うのかもしれない。


お互いに、お互いの価値観わかり合えたら、お互いに住み分けて、コミュニティーとしても良い関係に落ち着くようには思うのだけれど…。

実際に実現できるかは、かなり難しいのかもしれない。


以外って…

 『以外』って、意外と便利だよね。


いや、オヤジギャグではない。

言葉として通じてしまうので、便利すぎて、言葉が差す本来の範囲を超えて使ってしまっているきらいがあるようだ。

もちろん、自分も含める。


国語学者か蘊蓄(うんちく)かよ、とか言われそうだけれども。

とか言われそうだけれども。


『以』が便利、というか、誤用されて定着しているのだろう。

A以外…

本来は、Aも含める。

正しい表現として訂正するならば、『Aより外(ほか)』という表現が適切のように思う。


うざいとか、別にどうでもいいだろうとか思われる向きは多いかもしれない。

まぁまぁ、…いいじゃないですか。

(心の中の声:歪められている(もしくは歪んでいる)のは多分氣づいていないんだろう)


些細なことかもしれないけれども、意外と大きいことかもしれないなと思ったことでした。

今日見た夢


 目が覚める直前に見たもの。


家の天井近くの壁のところに白い縦長の四角い箱があって、中央に何か装置があってガラスか何かで覆われれていて、その下の左右に黄色いランプと赤いランプが消灯していたのが、黄色いランプが何回か明滅すると赤いランプが点灯して何事だ?と思って慌てて止めようとして近づいたところで、目が覚めた。


リアルには、外で雨が降っており、激しい雷(遠雷?)が鳴っていた。





氣づき

 大阪弁は、人の感情をあおったりまくし立てるのによく使われるツールだな、と思った。


九州弁自体も、かなり荒いもので、他の地域の人たちが会話を聞いた場合に、喧嘩越し(もしくは喧嘩になっているのではないか)、と思われるものらしい。

九州弁のナチュラルに話している当の本人たちは、ただ普通に会話をしているだけで、ただ相手に親しみを持って普通に話しているという状況のようだ。

その親しみの距離感が、私には気持ち悪いので、他人行儀と思われても、なるべく標準語を使うようにしている。


大阪弁は大阪で使われている言葉だと思うので、大阪あたりの歴史が関係しているのではないかと思う。

大阪弁は大阪で使われている言葉だと思うので、大阪あたりの歴史が関係しているのではないかと思う。

聞くに…江戸時代頃は、江戸の台所と呼ばれて、食材が集まったり貿易の中心地になって商人が勢いを競っていたと聞きます。

その彼らの活動がなければ、江戸での生活は成り立たなかったのだろうから、それらが悪いわけではないと思う。

ただ…風土(地政学的な意味を含む)は気質を育んで、言葉となって伝わって後に残っていくものなのだろうなと思う。


良いか悪いかは別にして、その地方の方々が持つ特性の1つだと考えるのは良いだろうか。


2024年2月20日火曜日

気付き

 やり方は私にはまだわからないのだけれども…

上からの情報が滞っていて、下からの情報も滞っているようだ。


上からの情報をおろす人がもっと増えるといいと思う。

下からの情報を上にあげる人たちが増えるといいんじゃないかな。

2024年2月19日月曜日

感想など。

 あー……別の人のブログをちょっと読んでいて書きたくなった感想を書いてみる。


スピリチュアルで魂が一定の評価に達していない人たちは1次元に落ちるという話がある。

僕の勝手な解釈によると、それはいわゆる原子をさらに構成する要素のクオーツとかトリノとか、そういうのに置き換えられるんじゃないかと思っている。


日頃、個人的に頭の中で反芻して考えていることの1つに、洗剤などの物質が、ちゃんと物質の法則通りに動いているから洗剤として効果を発揮するのだと。

俺は洗剤の中の一要素ではなく別の要素だから別の性質を持っている、とそれぞれが自己主張始めると、その千歳は、洗剤としての役割を果たせなくなってしまう。

別の性質を持っている、人それぞれが自己主張始めると、その洗剤は、洗剤としての役割を果たせなくなってしまう。

なので、洗剤を構成する物質の中の一要素として法則通りに動いてくれる事はありがたいことだなぁと思う。


さて、私が死んだときには、また人間に生まれ変わることができるのだろうか…。

個人的には、傷つきやすい魂で小さくはあるけれども、歪みは少ないといいなぁ…光も透明度も高いといいなぁ…。

感想など。

 とある方のブログを読んでいて思った感想を書いてみる。


比較して接種率が下がっているのは、もしかしたら、外国人の方に日本人になってもらって日本人としてカウントしていくと日本での1回目の接種をしていない人が増える可能性がありそうだなぁ、と思いました。


あれだね、会員しかコメントできないのなら、やっぱり囲い込みかな。

気づいたことをコメントしようと思ってコメントを押してみても、ログインしなければコメントできないような仕様になっている。

出版社と同じで、著者(ブログ主)をある程度守るための措置かもしれないけれども、結局自分の所の会員になって個人情報を差し出せと言っているようにしか僕には思えない。


それだけ、ウェブ上の治安も悪いのだろう。

自己肯定感との向き合い方から。

 これは、一般的なことではなく、個人的なメモ。


専業主婦をしていると、自分自身の力では現金収入がない。

ずっと専業主婦をしていると、家庭から見て外貨を得ている人に対して負い目をどうしても感じてしまう。

知り合いに兼業主婦をしている人がいたりすると、さらに自分と比較してしまう。

さらに相手に子供がいたりすると、私は子供を持っていないので、なおさら惨めな気持ちになってしまう。

それは相手が悪いのではなく、自分が勝手に比較して勝手に自分が惨めな気持ちになっているから、そうなってしまうのだと思う。


しかしながら、この状況を打破するには、かなり長い時間がかかってしまった。

実現不可能な条件と実現可能な条件を書き出して、実現可能な条件を満たせるように、してみた。

私の場合は、主人と相談して、1日1回無条件で、お小遣いを500円もらえるという取り決めをした。

500円玉は一番大きな法定通貨のコインだ。

ずっしりと、重量感もある。


気分が乗らなくて、家事ができない日でも、500円。

具合が悪くて、家事ができない日でも、500円。

もちろん、頑張って料理を作れた日も、500円。


こうすることで、『自分自身にも価値があるのだ』と少しずつ少しずつ、思えるようになってきた。


そういえば、なぜ私がお金を得られないことで自己肯定感が下がったか、について先ほど少し考えた。

昔は、(といっても、一昔ふた昔以上前の事だが)専業主婦はごく当たり前だったと思われる。

しかしながら、社会の風潮として、女性も社会進出をし、お金を稼ぐ人が増えてきた。

正社員でなくとも、パートや、アルバイトで兼業する人もかなり多くなってきたようだった。

そんな中、私は専業主婦を選んだ。

選んだこと自体は、私の責任であり選択の結果だ。


選んだ理由は、自身が現代社会に不適合だと感じたからだ。

化粧もしたくない(する価値が見いだせない)し、朝早くも起きたくない(する価値が見いだせない)し、何より忘れ物が頻繁だ。

加えて、顔も自由自在ではないし、体系的にも別に美人でも何でもない。

しかも、ストレスを溜めやすく、ひがみ根性ときた。

自分で書きながら、そりゃ無理だわ、と改めて思ってしまった。

みんな、やりたくないところをどこかで妥協して、仕事に出ているのだろう。

生きる(生活の糧の代わりとなる金を得る)ために。


私は、実はも何も、『他の人と一緒』のことが好きではない。

何故かというと、そこにほとんど価値を見出していないからだ。

しかしながら、社会に出ている多くの人(と私が思っている人たち)はおそらく、『自分がみんなと同じ(仲間)』だと思うことで、安心感というか心の安定感を得ているんじゃないかと思う。

日本人の特徴といわれる価値観だけれども、もしかしたら、日本は、先進国の1つとして経済的に発展し、ものが豊かになっているのと引き換えに…。


少し話を戻そう。

私が専業主婦を選んだ理由の1つとして、祖母から、こういう話を聞かされたからだ。

『大学とかに行って結婚して、旦那さんよりも収入が高い女は、旦那を低く見て、家庭が不和になる。』

……今これを書きながらふと思ったのだけれども、これって、モンスターペアレントと言われる方たちにも当てはまるのではないだろうか。

(安直すぎるだろうか?)

『大学卒業後に就職して、子供を産んで、教諭よりも学歴が高い女は、教諭を低く見て、教諭を尊敬する事が無くなって、学校の方針等に噛みついてしまう。』


モンスターペアレントという言い方も、学校側が手に生えない親について一方的にラベリングしたラベルだ。

聞いた話によると祖父が子供の頃は、少なくとも教諭は『聖職者』という扱いだったらしい。

しかしながら、時代が下って、そうだなぁ… 20年以上前位から『性職者』なんて、揶揄されたりする向きもあったらしい。


昔は、教諭はインテリ層で、親は無教養というのがほとんどだったそうだ。

そういう意味で、親は、子供にいろんなことを教えてもらうために、教諭に尊敬の念を向けていた、らしい。

…そういう威光もあって、体罰も多く行われてきたそうだ。

祖父の話を思い出すに、『何かあったらグラウンドを10周させられたとか、学校の山の上まで往復させられた』などと言っていました。

しかしながら祖父は同時に、その教諭に対して尊敬の目を向けていて『でもその先生も一緒に走ってくれた。だから偉い。』とも言っていた。

続けて、今の人は口だけで…という小言は、ちらほらついてきたようだった。

意外と、その小言は大きいものかもしれない。


そして、今日もブログの管理画面のぱっと見のところが閲覧数0と書いてあるのを見て、ほっと胸を撫で下ろす。

人に見られなければ、それは全く価値がないのかもしれない。

しかしながら、誰にも見られないことで何かを言われることもなく、安心して頭の中の考えを垂れ流すことができる。

YouTubeをする前からだったけれども、見てもらえることや登録者数が増える事は、『動画を聞いてもらえた、気に入ってもらえたのかも』と思い、ちょっと嬉し恥ずかしかった。

私は流行に乗るのはだいぶ遅いらしく、ブログもピークを過ぎていたし、ニコニコ始めた時も、ピークを過ぎていたらしい。

その後にYouTubeを始めて、その辺からSNSを触りだして…そして結局、ブログに戻ってしまった。

ブログというのはウェブログ(weblog)のことで、インターネット上で綴る日記のようなものらしい。

今でいう5chでは、チラシの裏と言い方がされていた。


いろんな所のブログを渡り歩いてきたけれども、今のところは、日本人が使っている割合が少ないんじゃないかと思っている。

ここのブログの会社は確か…イギリスだったような。

その後、Googleに買収されているようで、Googleアカウントと連結されてしまった。

個人的には、もっとこっそりしたい…。

(土の中にいるミミズのように…)


だいぶ古い情報かもしれないけれども、日本で流行っているブログは、FC2ブログやティーカップブログ、Ninjaブログや、アメーバーや、mixiなどがあったように思う。

最近は…Noteブログというのも、よく見かけるようになった。

ブログをたくさん人に見てもらうことで、お金を稼いでいる人もいるらしい(アフィリエイト)。

そういう人は、おそらく…人から見てもらうために刺激的なタイトルをチョイスしたりするのかもしれないですね。

エンタテインメントの提供の一環だと考えると、別に悪くは無いのかもしれない。

しかしながら、自分としては、なるべく情報に振り回されたくないものだ。