2024年3月14日木曜日

妙に氣に掛かる

 しばらく前からYouTubeで都市伝説系の動画への規制が強まったのだけれども、ヤタガラスの人達が動画に出て色々話しているのはやたら見かけるようになった氣がする。

(単にAI選択の結果なのかもしれないけれども…掛かる


ローマ時代末期の本『サテュリコン』をしばらく前に読んだのだけれども、その当時は人々は祈りを大きな口に出して、その代わりにAをしますから、と続けて、それを聞いていた周りの人たちが彼らの願いを叶える代わりにAをもらい受ける、という仕組みが成立していることを示されていた。


動画の人は、過去40年ほど祈り、踊り続けてきたらしい。

踊りのほうは、神楽舞の類だろうか?


ローマ時代のほうは、俗に塗れているのかもしれないけれど、思考を現実にしないと実際には起こらないという仕組みを考えると、彼らは『祈る人』という役割があるのかもしれない。

英語だとプレイヤー。

Prayer(祈る人)

Player(遊ぶ人)


LとRの違いで意味が変わるのが面白い。

ここにも、もしかしたら掛け言葉的な遊び要素が含まれているのかもしれない。

TRPGなら、その世界に存在するキャラクターの背後の人、みたいな存在かな。

なら、神様はゲームマスターやウォーデンのようなものだろうか。

要望や行動などを見聞きしながらゲームマスターは世界がキャラクターにどう反応を示すのかを示していく。

世界は、NPCだったり、形の無いものだったりするのだけれども。


最近、時々思うのだけれども、食事の前の『いただきます』は、食物などへの感謝だろうなぁ、ということ。

世界には、『いただきます』に当たる言葉が無いのだとか。

だからキリスト教では、食事の前に祈りを捧げるのかもしれない。

いろんな海外に行く機会がある人は、現地の食堂などで、『いただきます』をしていくのは、どうなのだろうか。

まぁ、日本人がやってる不思議な儀式か習慣と思われるとは思うけれども、面白がって覚えたり、『いただきます』してくれることもワンチャンあるかもしれない。


あ、うちは無理ですね。

海外に行くようなお金の余裕も、心の余裕も無いですから…。

2024年3月13日水曜日

2024年3月12日火曜日

あくまな話

 本の『イーリアス』を読んでいて、今回氣に掛かったところは『開く間』。

あくま、と読ませてあった。

いや、なんてない古めかしい表現だっただけ、なのだけれども、妙に…氣に掛かった。


『開く間』と『悪魔』と『開かずの間』。

今思いついたのは、『あ、熊』とかね。

何のジョークだろうか。(汗)


間髪入れず、というのは、すぐに、という意味だったと思う。

脊髄反射かなぁ。

間に髪の毛の太さも挟まずに、ということだから、そうだなぁ…。

現代で人に、「お金が欲しいか?」と聞いたら間髪入れずに「頂戴」と言うが如く?

もっといい例えはあるだろうか。

例えば…流れ星を見つけた時に願いを3回言えた時…とか?

これなら多分)間髪入れず』の説明になるかしら?


素直な欲求のみなら、間髪は入らず

何かよからぬことを思いついたら、答えるのに間が開くのでは?

脳みその思考時間かなぁ。

あくまで悪魔は脳みそにいる、か…。


間が開いていると、冬は特に冷氣が入ってきて寒いですよね。

私流の解釈では、冷氣は霊氣に繋がっていて、ついでに書くと龍は流と繋がっているように思っている。


冬は寒いからドアや襖(ふすま)を閉め(〆か?)たいもの。

(ここでこじつけるなら冷えは万病の元だから、ね。)

ここでいつも間を開けるのが癖になっている人がいたら、どうだろうか。

寒いと言っては閉め、開けたままにしないでと言っては閉め、それでもまた扉の間が開いている…。

積もり積もって、意地悪をしたくもなるではないか。

それで意地悪を過剰にしてしまって亡くなった場合は、彼は言うだろう。

「魔がさしてしまったんだ」と。


話にはよく聞く『開かずの間』の話。

実際にお目にかかっていないので都市伝説の類に当たるのかもしれない。

開かずの間は、何故開かないのか、開けない方がいいのか…。

ちょっと連想が飛んで、御守りの袋を開いてはいけないのを思い出した。

隠されているから神秘性が付加されているのであって、恐らく医師のカルテや紹介状なんかもその類なのだろう。

ヌードのお姉さんよりも靴下を履いている、とか、首にネクタイを閉めている、とかエプロンだけ着けている方がムラムラと性欲をそそるのは、極端な話だとチラリズムなのでは…?

…それとも小物で非日常を演出して場(結界とも空間とも空氣が出来てしまうからだろうか…。


なんてことを考えた。


2024年3月10日日曜日

夢落ち?

 夢で、10日後にサーカス(出し物)が始まるから、頑張って的なのをみた。

その後、亜鉛、セレンときて、関連でケルセチンと頭によぎった。


10日後に何があるのだろう、と思いつつ、3つをWikipediaなどで調べてみた。

結果…健康な食生活を意識し過ぎているあまりに、常態的にいろんなものを取り過ぎていることに気が付いた。


子供の頃は、基本的に親が与えるもの以外は、あまり食べることが出来なかったから、それでよかったのかもしれない。

コロナになる前からだけれども、魚類を意識して食べたり、体に良さそうなものも選んできたし、コロナ後からは缶詰類も、ここしばらくで食べ出していたのだけれども。

退院してから、更に氣を遣って食材も選んでいたのに、高効率化していることが仇になってしまっているようだった。

こうなったら養生、とか、氣を遣って、とか、意味があるのかないのか判らない。

まぁ、ダイエット中なので、カロリー自体は減らしていて、以前よりも食べる量も減っているハズなのだけれども…どうなることやら。

中庸とかバランスよくとか、ほどほどって意識すればするほど難しくなるのは、何なのでしょうね。