2024年2月28日水曜日

マジックザギャザリングのブースターパックの購入をした時のこと

 先日、TRPGの参考資料として、マジックザギャザリングのブースターを複数購入した。

キリのいい数ではなかったので、店員さんがブースターパックを横に並べて何度も数え直し、指差し確認などを含めて、をされていたのがとても印象的だった。

他の人のブログなどでチラチラ状況確認するに、生物兵器による脳障害が、公に広く現れ出しているのかもしれない。

しかしながら、そこはコンビニだったからか、何度も確認を行う、指差し確認も行うなどの対策が、おそらくマニュアル化されたんだと思われる。

お店は印象が大事ですからね。


簡潔に、わかりやすいマニュアルが普及すると(一問一答形式か?)働く人に柔軟性が求められなくなるけれども、それこそ機械かロボットかのように、事細かにマニュアル化された指示に従わなければならないようになるのかもしれない。

もう、何十年も前に揶揄されていた『マニュアル人間』に、本当になって行かざるを得ないのかもしれない。

今の、儚く脆い世界を維持するために。


私も、昔からあったものの、頭で思っていることを口に出すと変わっているという現象や、言い間違え、うっかり忘れが最近少し増えているような気もする。

カクテル効果の1種だと思いたくはあるが、家族を通してシェディングのために、もしかしたら私も侵されているのかもしれない。


家族には、仕事に行って欲しくは無いけれども、収入という財源をシステムに握られているので、人身御供に出さざるを得ない。

家族自身は、仕事に行くことがあるべき姿だと刷り込まれているせいなのか、何度理由を説明しても仕事に行ってしまう。

本当は、機会があればいつでも休みたいといっているのに、理由を言っても納得しない。


言い訳は一応あるようで、やっぱり収入の事と老後のことを言っていた。

家族を世俗から切り離すためには、やはり、それをするだけの社会的な大きな災害などの理由が必要なのかもしれない。

それは、言い換えれば、そういう状況にならない限り、システムは止まらないということ。


余談:

マジックザギャザリングのイラストレーターのTIANHUA Xさんの『島』のイラストが結構好き。

私の創造したTRPG内の世界では、地裏の世界の入り口になっていた。

ミュルミドーン達がいたり、世界樹の根と繋がっていたりした。


コメント確認しました。

 spamがアメリカ、カナダ、韓国から来ていた。

このブログでは初めてかな、コメント確認しました。

spamのは、いくつかは削除して、後のはspam指定すればいいのだと気づいた。

コメントにリンクを直に貼ってくるのは、確かに不審で気持ち悪いかも。

それを禁止にしたYouTubeには賛同できる。


エゴサーチしてくれてることを祈りつつ…。

大和さんへ

私も一緒に過ごした日々は楽しかったです。

ありがとうございました。


ドクダミですね…。

 ドクダミ崇拝があるようだった。

個人がそれぞれで信じるのは一応自由なので、この記事自体がどうでもいい話。


たくさんのドクダミの花に高濃度アルコールを注いで作るとのこと。

白くて可愛い花なので、プラシーボはバッチリ。

高濃度アルコールなので、皮膚に塗ると体温を急激に奪うので、痒みが止まる。

しゅっしゅっとふりかけて外出しても蚊に刺されない。

高濃度アルコールがその人の周りに飛散しているから。

問題は、その人の脳が萎縮してしまうこと。

本人は多分気付かない。


2024年2月27日火曜日

季節の折々

 春の嵐が来たようだ。

突風が吹いて木の枝が大きく揺さぶられている。

空は晴れて青空が広がっているのに、風だけ強い。

そろそろ黄砂も増えるのかもしれない。

ソーシャルディスタンス…?

 とある方のブログを読んでいて、『2001年宇宙の旅』という映画?の幻想を思い込ませるために宇宙開発を続けなければならないという話だった。

オデュッセイアという単語が出てきたので、ウィキペディアで見てみると、かなり長い放浪の旅みたいなニュアンスのことが出てきた。

トロイア戦争の後の話らしい。

全部で24巻あるらしく、イーリアスと同じ位の長さだ。

こちらはもうすぐ読み終わるので、今度はオデュッセイアを読んでみようかなぁ。


聖書を信奉している人たちは、彼ら自身が長く放浪している人たち(ユダヤ人)である、と思っている人たち、(そうでなければならないと思う人たち、そうでありたいと思う人たち)だったりするのではないかと思う。

彼らには選民思想がある。

自分たちは、選ばれた民であるという考え方。

そして、古いユダヤ信者ではなく、新しくユダヤ教に入った人たちは、ユダヤ民族ではないそうだ。

聞いた話によると、ユダヤ人とは人数的に少なくなったので、ユダヤの聖書や教えを受け入れる人たちを歓迎したという面があるらしい。

そういう人たちは、もしかしたら、他の国のルールや宗教的価値観から、あぶれたものたちなのかもしれない。

長く放浪するというニュアンスからは、カインの末裔を彷仏とさせる。

周囲の社会から受け入れられない自分たちは、カインの末裔なのかもしれない、と強く思いたいのかもしれない。

もしかしたら思いたいのではなく、それをなぞることで、自分たちがそうなんだ選ばれた民なんだと、強く主張したいのかもしれない…声なき声で。


昔遊んだゲーム『オーディンスフィア』の中で、予言の書の通りに、ことを運ぶことで終末(予言の書に描かれている終末)を正しく実現させようとしている集団が描かれていた。

主人公サイドにしてみれば、狂気の沙汰だ。

一般人から見ても、狂気の沙汰なのだろうけれども、一般の人たち(民衆)には公にされていない。


もしかしたら、もしかしたら…彼らはそれを繰り返し繰り返し、強くなぞることで、自分たちが選ばれた民であると主張しているのかもしれない。

(彼らを受け入れない)世界は、彼らにとっては腐敗で溢れていて(世の末)、今が世の末なのだから、救世主が現れて自分たちを救ってくれるはずだ。


自分たちは、正当な神の血筋のもので、カインの末裔なのだから腐敗しきってたこの世界に馴染むことなどできない。

自分たちは、神に選ばれた存在なので、救世主が現れてきっと自分たちを助けてくれるだろう、そのはずだ、そうでなければならない。

そう思い続けることで、彼らは自分たちの国を持たないというアイデンティティーの喪失の代わりに、新しいアイデンティティーを獲得したのではないだろうか。

世界中を旅して、それでもどこにもなじむことができなかった彼ら。

東の果ての園(エデンの園=日本)にたどり着いたものの、そこの住人は排他的であった。


彼らは、力ずくでどうにかしようとするのだろうか。

太陽と北風を匂わせてしまう。


日本としては、(私個人としては)社会の共通ルールを守って、治安を乱さなければ、隣人として歓迎できるのではないかと思う。

ただこれは、理想論なのかもしれない。

彼らがそれを今までできたのなら、こんなことにはならなかったはずだからだ。

そして、私の住んでいるところが川口市では無いから、机上の空論を書くことができるのかもしれない。


当事者だったら、きっととんでもないこと、と思うのだろう。

距離がある程度ないと、心の余裕もなくなるから…。


ん…?

これが、ソーシャルディスタンスという意味だろうか?

半径2メートル…。

2メートルの距離があれば、ナイフで刺される心配はしなくていいのかもしれない。