2017年8月18日金曜日

私的『神という存在の認知』考

キリスト教には神話がない。
神話がない代わりにあるものは奇跡というエピソードだ。

比べてギリシア神話をみてみると神々は
欠点があり、時には失敗もし
実に人間臭く描かれている。
ギリシア神話の神々は、なぜ人間臭く描かれているのだろうか。

思うに、神という存在を人間臭く印象付けることで
人間が似た事例に出会った時に
その神の存在を思い出すための仕掛けなのではないだろうか。

神という存在は肉体がないのでこれと決まった寿命はない。
ただ、人間に存在を忘れ去られては
神という存在意義が無くなってしまうため
霊性や使える力が限られたものとなったり
存在自体が消滅してしまう可能性がありそうだ。

例えるなら木のようなもので
木に寿命は基本的にはないのだという。
木の寿命は生えた場所の環境に依存する。
どれくらい水・養分を得られるか
どのくらい枝や根、幹を伸長する空間があるのか
風や雷など気象条件にも左右されるだろうし
他の生物からの侵食状況も考慮する必要がありそうだ。
環境が変われば街路樹と屋久杉くらい変わるものなのだ。

つまり、ギリシア神話における神という存在は
自らの霊性や使える力を維持するために
人間臭い部分をいくつも表に出すことで
人間に親近感を持ってもらい
折に触れて思い出してもらうことで
信仰心や心のどこかで存在を留めていてもらうという形で
自身の存在を繋ぎ止めているようなものだと思うのだ。

キリスト教には神話がない。
キリスト教には人間臭さもない。
ギリシア神話との大きな違いは一神教か多神教かの違いである。
多神教の場合は神々の間にエピソードを設けることで
それぞれの神に対して個性をつけることが可能だろう。
それに対して一神教では
一人の神しかいないのだから
一人で全てを賄わなければならない。
つまり、超人で、かつ完璧であることが求められるのだ。
物語としても、主人公である神の独壇場なので
大衆文学に比べれば、味も素っ気もないと人間は感じるだろう。

そこで『奇跡』というエピソードが登場する。
神は奇跡という、常識ではあり得ない素晴らしい力を用いて
人々に恵みを、時には災いをもたらす。
祝いは、立場が変われば呪いとなることもあるのだ。

キリストは奇跡を用いて人々から信仰を集め
霊性も上がっていったのではなかろうか。

つなり何が言いたいのかというと
自分が信じるモノがなんであれ
本当に存在するんだと強く想うことで
その存在は存在感を増して
本当に存在できるようになるのではないか、ということである。

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