2018年12月25日火曜日

カラオケは現代の魔法のひとつ → 歌は魔法 → 文明と文化の違いについて → ナンセンス → 彼らも被害者 → 譜読みと耳コピー → 譜読みのみの(私が知る)究極形態 → 無理 → 清過ぎる水に魚が棲めない理由 → 科学とは → 黄金の林檎 → 口内センサー → 人間の無知 → 人間の性能と思考の飛躍、追いつくための示唆 → 焦点を当てるというツール → どちらも併用すれば、より正確な情報を得ることができるという事実。 → 『違い』を楽しめるようになりましょう。

カラオケに行く。
お店の人に常連さんと言われてしまった。
いいことなのか悪いことなのか。
とりあえず、いいこととして捉えておこう。
禁煙ルームのJoysoundをお願いしてみた。
今は無いけど、年明けには考慮してくれるそうだ。
言ってみるもの、ですね。

カラオケは現代の魔法だ。
かつての魔法を一般人にも
手軽に使うことができるようにしてくれている。

かつて歌は魔法だった。
魔法というより、魔術の類扱いをされていたに違いない。
意味の分からない記号の連なりを書く人たちがいて
それを読み解いて音楽というカタチにする人たちがいた。
男だったら魔王や魔法使い、魔術師。
女だったら魔女と言われただろう。

だから暗黒時代の後に一気に文明、文化レヴェルが廃れた。

文明と文化の違いについて、ちょっと考えてみた。

色々と考えてみたのだけれども
たいした違いが見出せなかった。
そもそも文明とか文化を分けることがナンセンスだと理解したから。

というのも、ソレを感じて
それを文明と捉えるのか、文化と捉えるのかは
受取手次第だからだ。
境界線なんて、ありはしなかった。

では、誰が決めた?
一応、陰謀論でいうところの裏の支配者側だろう。
だけれども、彼らは完全な悪では無い。
最初はコレに定義が無かったのだ。
大衆は定義を求めた。
コレは一体何なのだ? と。
求められたら、応える責任が彼らにはあった。
彼らは大衆と共存している関係だったからだ。

概念というカタチの無いモノに
形を求めた大衆は無知で、残酷だった。
為政者は困った。
定義付けを完全にすることなど出来ないからだ。
そもそも、その概念すらないのに
創って!
なんて、気軽に言わないでほしい、という気持ちだろう。

無視できないほどの欲求が大衆に溜まる。
時間との勝負だったろう。
大衆に不満が募れば革命(revolution)される。
為政者に待っているのは、不遇だ。

「レボリューション」の語源は
「回転する」の意味を持つ
ラテン語の「revolutio」である。(うぃきより)

共存関係から追い落とされることは避けたかった
というのが本音だろうと想う。
だからありもしない概念を
大衆に求められたから
仕方無く定義付けを行ったに過ぎない。

完璧なモノなど無い世界な上に
白黒つけないと気持ちが収まらない2元論に
双方とも陥っていたのだから仕方が無い話だ。

カラオケの話に戻ろう。
私は、合唱をしているけれども
譜読みは幾つかな…
レヴェル上限が100まで、仮にあるとしたら
私の譜読みレヴェルは、レヴェル5くらいかな。
だから、沢山のアーティファクトを使ってブーストして
足りない部分を補っている。

合唱しているからといって
譜読みが出来なければ合唱ができない訳では無い。
耳コピーも立派な技術だ。
正統派や本格派の人には受け入れがたいだろうけれども
事実だから仕方が無いことだ。

その補助のために楽器(人間の声も含む)を用いて
メロディラインの音取りやら
パートの音取りやら
伴奏があったりする。

わからないから
わかるようになるために練習するのだ。

ムジカアンティカに、しばらく在籍したことがあるけれども
(およそ music antique という意味だと聞いている)
音取りは一切しなかった。
楽譜を渡されて、混じって歌う団体だった。
これが多分、譜読みのみの(私が知る)究極の形だろうと想う。
当時の私にとっては、すごく困難な道で
2ヶ月くらい通ったが、途中放棄した。
辛くて、もらった楽譜も全て捨ててしまった。

どうしてこの団体に所属したかというと
ポリフォニーが美しいと感じるから。
耳コピや
自分でブーストをかけた見覚えのある楽譜の曲なら歌えるから
その部分だけでも…という想いからだった。

とても情報処理能力が追いつかない。
目が泳ぐ、音を見失う、頭が真っ白になる
焦る、他のパートから音を探そうにも拾えない。
それが練習の時間中、延々と続くのだ。
グループに誘ってくれた知り合いに、
一緒のパートの人に、
そのグループのメンバーに、
申し訳無い想いだけが募っていった。
私は
その彼らの共有する貴重な時間を汚していただけなのだから。
長い期間、参加したいと頑張った分だけ
彼らの貴重な時間を汚していった。

完成されたカタチは美しい。
それが純粋であればあるほど、その美しさは増すモノだ。
だけれども、自分がその域に達していないと
手を伸ばしても
その宝石は砂粒のように指の間からするりと逃げてしまう。
清過ぎる水には、魚が棲めないのと一緒だ。

純水は、化学式では、H2O と表現される。
H2O だけの水槽に魚を入れると、時間が経つと死んでしまう。
理由は簡単。
酸素(O2)が溶け込んでいないからだ。

科学は
モノゴトを理解する上で大いに役立つアーティファクトのひとつだ。
科学自体も万能では無いし
矛盾も内包するものだけれども
それでも、利用できるツールとして利用するのは
大いにありだと想う。

私は利用するけれども
信仰はしない。
全方向にチャンネルを開いているからだ。
1つだけでは矛盾が生じるコトを理解しているから。
世界のより正確な本質を識るためには
より多くのベクトルで
ソレに対してアプローチを、かけなければならない。

貴方にとって『りんご』は、どんな存在でしょうか。
『リンゴ』でしょうか?
『林檎』でしょうか?
『苹果』でしょうか?
色は?
『赤い』でしょうか?
『青い(より正確には薄い黄緑色)』でしょうか?
実は『赤』にも認識できる人には
細分化できる世界があって
『紅』でしょうか?
『猩猩緋』でしょうか?
それとも『曙色』?

いくらでも細分化できる世界。
口を通して脳で感じるセンサーは
食感(歯応え、噛み応え、歯触り、舌触り、喉越し)
味蕾(甘味、塩味、酸味、苦味、旨味)
質感(水分、脂質(含:油分))
エネルギー(カロリー、デブリ(ゴミ))
栄養素(糖質、脂質、蛋白質、
    無機質(ヴィタミンを含むミネラル類))、水分

とりあえず粗々(あらあら)挙げるだけでも
これだけ感知できる繊細なセンサーを人間の口は備えている。
で、その時の自分の体が求める物を選んで必要な量だけ食べている。
完璧な食品は
現在の少なくとも
日本で中流階級の一般人として
現実世界で暮らしている人間の現実世界で
常識と勝手に決めつけられている概念を壊せない人達が
一般的に口にする食品には存在しないので
(限定条件を一生懸命つける意味すら無いけれども)
安心して食べるといいと想う。

そこに存在するのは
各種のバロメータ(『指標』という意味に限定)のみだから。
その時に 凹な体 が求めるパラメータを
(『複数の・指標』という意味に限定)
満たす分の 凸の摂取分 を補おうとする欲求。

それだけだと『味気無い』と
欲求が大きい人間という存在は別の要素も求める
(味はあるのに味気無いとは、これ何如に?)
ので
犠牲を払ったエネルギー量
(金額や手間、かけた時間や熱意、注いだ愛情など)に
釣り合うかといった満足感や
人間の文化的に欲しいと欲する要素としての
香りや味付け、
盛り方やお皿の質といった要素がふんだんに含まれている場の雰囲気
というティスト(風味付け)が必要となる。

どちらも完璧を求めようとすること自体
(片方ですら完璧なモノはないというのに)

矛盾があってナンセンスなコトなのに
それを求めるのだから無知としか言いようがない。

1つの結論に達したので、“ 『りんご』 ” まで戻ろう。
書きたいことは多いけれども、それはまた別の機会に。

この『りんご』の例えは
俗にいう『黄金の林檎』のコトを指している。
ありもしない理想の形、とだけ
一般的には認識されていると私は感じているのだが
そうではない。
脳内で理想を求める世界では、存在する。
(しかも、それぞれの人に求める分だけ在る。)
それを現実世界で求めれば、存在しない。

理由は
脳内で求める理想の値が
現実が反映できる値の限界値を大きく超えているから。

いい意味で捉えると
人間って、すっごい高性能な量子コンピューターだよね
とか
心って、すっごい高性能な量子存在だよね
ってことなのだけれども
ここまで思考が飛躍し過ぎているのに
ついていける人って、何人くらいいるのかしら…?
フィルターを
ほぼ全部解除した人だけが到達できる話だから
大抵の人は脳内で
理解不能というエラーが出まくっているのかも。

知識を得たいと想うなら自分で調べるのが一番早い。
インターネットは優秀なツールだ。
インターネットでなくても、情報はそこらかしこに溢れている。
理解出来ない世界だと切り捨てるなら
そこまでで貴方の成長は終わるし
或いは
その限定された世界に生きる方が
貴方にとっては、まだ楽だろう。

こういうのが、あらゆるモノ、コトに存在する。
とりあえず、今の私が認識することができる一番上の世界は
こんな世界だ。

全部のモノ・コトが繋がっている。
だから、1つに焦点を当てて考察することは
ほぼ不可能。

枝葉を辿るから話に花が咲いて話に筋が通らない
という男性の理論もナンセンス。
理由は
自分が選んだ枝を幹だと勘違いして認識して
他の枝を全て価値が無いモノと切り捨てているから。
本質はソコには無い。

全ては繋がっている
けれども
それを表現するにはあまりにも膨大だから
人は焦点を当てるコトを憶えました。

焦点を当てるという概念は優秀なツールでした。
優秀なツールを手に入れた男性は
そのツールを脳内要素としての
その濃度が低かった女性を差別しました。
(これまでの人類はすべからく2元論の世界に囚われていたので
 区別を『区別』と認識できていないため
 差別という表現を用いた)
事実、男尊女卑の時代が長く続きました。

男性の遺伝子にも半分は女性の遺伝子が混じっているのに
女性を下に見るというコト自体が既にナンセンスなのだけれども。

焦点を当てるツールは
物事を体系的に組み立てて行く上では優秀なツールだったのですが
欠点がありました。
優秀過ぎたがゆえの欠点、それは
全体の視野の存在を忘れてしまうコト、でした。

どちらも併用すれば
より正確な情報が得られます。

なんだ、いちいち黄金の林檎の例えなんか出さなくても良かったんだ。
言いたいことはだいたい全部同じ。
同じ結論に帰結する。

もちろん結論といっても
考察するモノ・コトの性質や
当てるアプローチや切り取りたい事象によって
それは千差万別の形を成す。

今回のは、多分、私が見つけた方法論だと
位置付けられるように想う。

一極集中でも、全く問題がない話だ。
だって、それを望む人はそのカタチで
結果を得ることができる世界だから。

RPGのゲームとかで例えるなら
極型でもバランス型でも、いいんじゃね?
ってコト。

私は、状況に応じて
武器もステータスも態度も自在に操れるのが
一番だと想うけど、ね。
それだけのこと。

どっちも道。
そして、どの道も肯定されている世界。

『違い』があるからこそ、おもしろい。
『違い』を楽しめるようになりましょう
って、コトじゃないかな、多分。

0 件のコメント:

コメントを投稿