2018年12月24日月曜日

猫ちゃん → 『命の重さは平等』考

大村に住んでいる頃に猫を助けたことを想い出した。
助けたというには即死だった様で
すごく可哀想だった。

あの日は長混に行く日だったから
火曜か金曜だったはず。
竹松駅に行く途中の車通りの多い道路で信号待ちをしている時に
向こうから猫が飛び出してきた。
彼か彼女の『成人の儀式』は失敗に終わって
道の端に転がった。
夕方、車通りが多い道なので死体を踏まない様に車が大きく避ける。
多分、自分の車を汚したく無いからだ。
車が大きく避けるので、向かいの車も困って混み合い始めたので
私は猫を抱き上げた。
まだ温かかった。

今想えば、やっぱりみんな責任を負いたくなかったんだなぁと解る。
口の端からちょっとだけ血が出ていて
毛並みもふわふわで、大人の猫だったから少し重かった。
両腕で抱きかかえて
その辺の人に聞きつつ、一番近い動物病院へと歩いた。

診てもらった結果、即死だったと知った。
遺体は…市の保健所に連絡を入れてもらって
引き取る手続きをしてもらった。
(今だったらどうしただろうか。
 今日用の土のスペースに穴を掘って
 埋めてあげることができるかもしれない。)

もしかしたらこの猫ちゃんのことが
私の今までの人生の中で
一番ショッキングな出来事だったのかもしれない。

誰かの想いが念となって来るのが相手側からだとしたら
私が猫ちゃんを想って霊を呼び寄せることだって
ありうることだろう。
ってか、ほぼ原理一緒やし。
私があの猫ちゃんと一緒にいたいと想えば
狐憑きならぬ猫憑き
逆方向だから神降ろしならぬ猫降ろしだって
できてしまうことになってしまう。

あの時初めて会った猫ちゃんなのですけれどね。

命の重さは平等だ、という言葉がある。
私は、それはあり得ないと想う。

理由は、私たちはまだ生きているので
それを言う資格が無いと想うから。
もっと解説。
平等というのは、比べることができる状態になって
初めて発することができる言葉だ。
つまり、その人が死んでいる状態の時でないと
そういうことを知ることができないはずだから、だ。

私たち、いや、少なくとも私は
生きている間は主観で捉える。
地球や宇宙に存在するたくさんの人間や
その他の生物の命や在り方は
出来るだけ尊重したいと考えているけれども
事実、殺さないと生きていけない。
今日も鶏肉を食べました。
『命の重さは平等』だというのなら
今の日本の法律とかでは(全然詳しくないけど)
殺人とカニバリズムした猟奇的な殺人犯になる。
(人の漢字を鶏に置き換える必要があるだろう)
私は、今日食べた鶏のために
一生悔いながら過ごさなければならないことになってしまう。
だから、『命の重さは平等』は、違うと想う。

人間相手に限っても
誰とかさんが死亡、と聞いても、誰?
って、想ってしまう。
私に近しい大切な人達と、会ったことも無い人達が
切羽詰まった状況でどちらかを助けられるとしたら
私は迷わず私にとって大切な人を助けることを選択するだろう。
それが、人間の現実世界において正常とされる心理状態だと
私は認識している。

全員を助けることができるなら助けたい。
だけど、私の体は1つしかない。
(考えようによっては、1つあれば十分なのですが。)
じゃぁ、順番をつける他ない。
どの順番で?
私が大切に想う人からという順番になるのは
至極当然だと想うのです。
(もちろん、その瞬間毎に大切の基準は変わる。)

これを考えたら、やっぱり『命の重さは平等』というのは
ただの理想論でしかありえない。

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