2018年12月29日土曜日

愛の形

羽生結弦さんのオリジナルフレーム切手の
メモリアルなポストカードを持っていた。
今はもう、手元にはない。

彼には悪いのだけれども
私は彼のファンというわけではない。
TVに出ていて、華麗な演技で…
簡単に言えばすごい人だなと思っている。
そして、有名な人だな、とも
多くの日本人が彼を共通認識していて
そして彼に好意を抱いているし
その姿を(何の媒体であっても)見たら好意を寄せるだけの
存在であり偶像(アイドル)になっていると理解した。
理解した上で、その商品を予約購入した。

言い方を選ばないなら、彼の偶像による神秘性を利用した。

冬の中の、いいイメージの記号を彼はたくさん持っていたから。
送られた相手が喜ぶだろうと想ったから。
一枚の紙は、彼の魔法で贈り物(ギフト)に変わる。
彼の魔力は強大で、時として私はその魔力を御することができない。
魔力自体は中性なので
扱いは慎重に扱わなければならない。
知識と一緒だ。

私は人体に対する知識を幾つかのベクトルからの視点を持っている。
それはただの知識だけれども
私欲で悪用しようとすれば、人を殺すことができる。
いいことに使おうと想えば
それで人を助けることもできる。

上の例でも理解できない人には、次の例を挙げよう。
包丁をいい方向で使えば、美味しい料理ができる。
悪い方向に使えば、人を殺すこともできる。

(過激、かつ俗な事象までレヴェルを下げて
 具体性を上げないと、それと理解してもらえないのは
 非常に不便だ。
 まぁ、これは愚痴です。)

その彼の魔力も均一ではない上に
そのフォトグラフに載せる情報も
どこまで、誰に、どんな視点で、どのタイムラインで
等、複雑かつ多岐にわたる上に
伏せられている情報が多い故に
結局は
ダイスの女神(別名:運命の女神)の手に委ねるのみ。

『送られた相手が喜ぶだろう』と想うことに
追加の対価を支払ってまで行うことは
目覚めていない人たちにとっては
無駄であり、意味が無いことであり
意味を見出せないことらしい。

私は不思議でたまらない。
それをあなたたちは『愛』と呼んでいるのに
その形が見えても『愛』というものと認識できないものらしい。

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